昭和前期の推移

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 大正11年札幌・小樽・旭川・室蘭・釧路と共に函館にも市制が施行された。施行時の戸数は33,306戸、人口は146,855人であった。その後人口は順調に増加し、昭和5年には197,252人となった。この年の第3回国勢調査によると、職業構成は商業28.6%、工業21.8%、水産業12.2%、交通業11.5%、公務・自由業10.9%、農業1.7%その他13.3%と大正9年の職業構成に比較して公務・自由業の絶対的・相対的増加が顕著な特徴として挙げられる。
 昭和9年3月21日住吉町で出火した火災は函館の家屋の約半分を焼失させる史上最大の大火となった。同年9月までにかなりの復興を見せたものの、戸数は36,567戸と前年に比べて約5,000減少し、人口も185,391人と前年に比べて約3万人の減少をみた。昭和11年には大火前の人口を取りもどしたが、戸数はその後10数年間4万2,000台にもどることはなかった。
 昭和12年には日本の本格的中国侵略が始まり、中国の戦火が拡大し、国内の産業が軍需に向けられるようになってくると、重要な産業を水産品に求めていた函館の経済は衰退し、昭和14年の国家総動員法の発動によってますます函館の経済は衰退を余儀なくされた。同年湯川地区が合併し、戸数約2,000、人口約1万人が増加したが、数値の上で前年に比較して増加せず、減少分をカバーしたに過ぎなかった。こうした戦時体制突入の影響は、人口・戸数の上にも表われ、人口・戸数共に停滞し、ついに昭和19年には人口が20万人台を割る。
 昭和16年第2次大戦が始まると、明治後半来ずっと男子人口が女子人口を上回っていた傾向はストップし、以来今日まで女子人口は男子人口を上回る傾向が持続されている。
 人口の減少、経済の衰退に伴って就業人口も減少し、昭和15年には71,254人となり昭和5年の75,384人に比べて約4,000人の減少を示している。また、就業人口の職業構成は、昭和5年のそれと比較して大きな変化がみられない。すなわち商業28.9%、工業23.2%、水産業13.0%、交通12.4%、公務・自由業9.9%、農業3.7%、その他8.9%である。

大正11年(1922)~昭和20年(1945) 人口・世帯数の推移