縄文時代の住居は特殊な岩陰とか洞窟を除くと、沢に近い丘陵や海岸にあるが屋根などの建物が残っていることがほとんどない。柱穴、炉跡、住居壁などによって住居の性格や大きさを測るが、これらから当時の住居を復元することができる。煉瓦台貝塚の住居址は、竪穴住居で土を掘りながら調べて行くと円形に土の色が変わり、その変化する輪郭がほぼ竪穴住居の大きさに等しい。その中央近くに炉址があって灰や木炭末が残っているが、炉の囲いは石組である。床面が踏み固められていて盤状になっている。その上に10センチメートルほどの土があって当時の生活に用いた遺物が含まれている。柱の木は残存していないが、床面に柱を立てた時の穴がある。これを柱穴と呼んでいるが、柱穴内の土はさらさらとして柔らかく、それを除くと柱の太さと埋め込んだ深さがわかる。床面を掘り広げて行くと住居壁が出て、住居の大きさや形態がはっきりする。これを住居址(跡)と呼ぶが、煉瓦台貝塚で特徴的なのは1号住居址である。この住居址には南に面した出入口があって、住居址の内側に柱穴が並んでいた。住居址で出入口のあるのは珍しい。これは人1人が出入りできる程度の70センチメートル幅で、80センチメートルほど屋外に出ていて、通路は外側から住居内に緩やかに傾斜し、両側に細い柱穴が並んでいるので、小屋根があったのであろう。この住居址は北側が2号住居址によって切り崩されているので明らかでないが、直径4メートルで柱穴が一部不明であるが、特色は太い主柱とその両側に補強的役割をする細い支柱とが組になって住居の内側に並んでいたことである。推定6組あったと考えられる。主柱穴の大きさはいずれも直径20センチメートル前後で、深さ20から40センチメートルである。支柱穴は直径5から10センチメートルで、深さは10から17センチメートルと浅い。柱穴はほぼ垂直にあいていて、柱を固定するための粘土や割石がなく、柱を刺し込むようにして立てている。柱の太さは柱穴の直径とほぼ同じと考えられる。この住居には炉が2か所あって、石組のない炉が中央に、そのやや東に方形の石組炉がある。石組のない炉の大きさは径が60センチメートルで、石組の炉は正方形で径が65センチメートルである。石組の石は偏平な自然石を横長に縦に並べている。住居の構造は、竪穴住居と呼ぶ半地下で、当時の地表から約40センチメートル掘っている。屋根は円錐形で裾は住居の掘込みより1メートル離れている。この遺跡で確認されたのは、屋根の裾に粘土や普通の土を盛っていたことで、中には屋根の上までかぶせているものもある。冬の寒い時期のすきま風を防いだり、雨水の流入を防ぐためである。北方民族の住居にはよく半地下式のものがある。住居の壁を木で囲み、土を盛って屋根をかぶせるもので、家の中が大変暖かく、暖炉がなくても生活ができると言われている。煉瓦台貝塚の住居址内の炉は、灰の堆積物に骨などが含まれず、おもに暖房用に設けられたのではないかと思われる。ただここで方形石組炉の場合、規模に多少の違いがあっても、石組の方向が不思議に南北を軸にしていることである。普通は石組炉であっても中期になると、馬蹄形の二重構造で小石を敷き詰めたものや、長方形あるいは円形などいろいろな型式があるが、この方形の石組炉にはいずれも規則性が見られた。住居址の平面形はすべて円形であるが、柱穴は1号住居址を除いて内壁に何本かある程度で一定でない。また、出入口があるのも1号住居址だけである。