縄文社会の革新

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日吉遺跡の人面文様

 日吉遺跡の時期は、北海道でストーン・サークルやケールンと呼んでいる石積みの遺跡や、環状土籬(り)と呼んでいる円形に土塁を築いた遺跡など、特殊なものが現われる。日高の御殿山にあるケールンからは朱漆塗りの櫛(くし)が飾り玉などと共に出土しているが、漆塗りの技術がどこから来たのか、この一例を考えるだけでも、これまでの縄文社会と違った高度の文化が発達していたことがうかがえる。漆塗り技術は、現在ではごく一般に用いられているが、古代では中国などの漆器を使用した特殊な階級に限られている。櫛も一般には使用されなかったもので、これがどのような形で縄文時代後期に存在したのであろうか。ヒスイ玉の渡来や非実用的な装身具も多くなるが、この変化は石器など生産用具ではそれほど変化が見られないのに、その他の遺物や遺跡に見られる特殊性は、墓域や埋葬法からうかがえる権力者の存在と関係があろう。社会的革新と祭礼などの儀式によって酒器や装身具、装飾品が誕生したのである。祭りや儀式の対象になった信仰は、狩猟に関連する自然と、権力者との結び付きが基になったものであろう。ストーン・サークルやケールンのある遺跡は海岸から離れた小高い丘にあって、居住地から離れた位置にあることが多い。臼尻遺跡でもその後の調査では、ストーン・サークルの後背地で約100メートル離れた位置に居住地が発見されている。聖域と居住地の分離である。この時期の特殊な遺跡は縄文時代の晩期には見られなくなってしまう。このような特殊遺跡について、直接中国など大陸との関連を考えた人もいるが、次に述べるように、土器などの遺物を見ると、大陸との直接的な関連資料が少ないし、どのような要因で特殊な遺跡ができ、遺物の変化が現われたのかは明らかでない。