司法裁判所の分離独立

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 箱館府の時は、一般行政事務を行う施事局(下局)中に庶務局、外国局、会計局と並んで刑法局があり、刑法局中の掛には市締掛、在締掛、監察と共に鞠獄掛という掛があって、聴訟、断獄、囚獄等を担当、司法と行政は未分離のままであった。開拓使になっても同様で、箱館府から事務を引継いだ直後は、聴訟、刑法の2事務が農政係の職務中に、その他の民政事務と共に並んでいるという状態(明治2年10月函館出張所各係取扱事務参照)であった。その後、明治6年5月に函館支庁の事務分課整理が行われて刑法課が誕生した時には、聴訟、断獄、書記、白洲、訴所、懲役、囚獄の6係に事務分担されていたようである。
 司法を行政庁から分離する動きは、明治4年7月9日に刑部省と弾正台を廃止して司法省を設置したところから出てくる。8月17日、司法省は設置時に設けた囚獄司(刑部省の逮部司を引継いだものと思う)を廃止し、「捕亡囚獄ノ事務、自今総テ地方官ヘ」(「太政官日誌」『維新日誌』)任せることに変更した。つまり、捕亡囚獄徒場の事務は地方庁担当とし、裁判事務を全国統一法規で司法省が担当することとし、この年12月26日、東京府に置いた司法分庁を「二十七日ヨリ同省内ヘ引移、別局ヲ設ケ当分東京裁判所ト称シ、右事務一切取扱候」(同前)と布達した。最初の府県裁判所である東京裁判所が誕生したわけである。翌5年8月3日、司法省は官制を改め、臨時裁判所、司法省裁判所(所長は司法卿兼務)、出張裁判所(所長は判事)、府県裁判所(所長は判事)、区裁判所(所長は解部)を置くこととした。府県にあっては、4年11月27日制定の県治条例によって県庁事務分課(庶務課、聴訟課、租税課、出納課の4課)中の聴訟課が訴訟の審聴、罪人の処置、捕亡を担当することとなっていたが、訴訟の審聴に関することは司法省下の府県裁判所が所管する体制となったのである。
 その後、8年4月14日に大審院(院長は1等判事…最高の裁判所)が設置されると、先の諸裁判所は廃止され、上等裁判所(所長は勅任判事)と第1審の府県裁判所(所長は判事)に整理されている(大審院諸裁判所職制章程「太政官日誌」『維新日誌』)。8年11月30日に県治条例が廃止され府県職制並びに事務章程が制定された時は、府県事務分課は第1課(庶務)、第2課(勧業)、第3課(租税)、第4課(警保)、第5課(学務)、第6課(出納)の6課となり、司法裁判所関係は府県の地方行政事務から外されている。