戸籍法制定後の明治4年7月14日に廃藩置県を実施し、全国を統一的に掌握できるようになった政府は、県治条例(11月27日)によって県治事務章程を定めた。この県治事務章程の上款(全31条)の第1条が「部内郡村ノ制置経界を釐正(りせい)する事」で、下款(全16条)の第1条が「戸籍編成ノ方法ニ依リ戸口ヲ総計スル事」である。戸籍法の具現化に向け体制を整えていったわけである。
しかし戸籍法では戸籍区の実務の責任者である戸長の任命について、これまでの町村役人の兼務でもまた別に任命しても良いと地方官の任意に委ねた。そのため各地での扱いが一定せず、町村役人とは別に戸長を任命したところでは、両者間で地方の諸務の主宰を争うという問題が頻発、さらに彼らの経費(本州では町村役人、戸長の月給等は住民負担の民費であった)が嵩むということもあって、地方事務担当の一本化を図る方向へと動いた。明治5年4月9日、政府は太政官布告第117号を布達、荘屋、名主、年寄等を廃し、戸長、副戸長と改称して、土地人民に関する事すべてを担当させ、これまでの町村役人はすべて廃止してしまった。函館で従来の町役人を廃し彼らを戸長副戸長に任命したのは、この考えの先取りといえるものであろう。
ところがやはり戸籍法によって戸籍区の統括者として別に戸長を設置していた地方は、戸長が重複することになり、問題が残った。このため「区」には区長を設置したいとの提案がなされ、政府内部でも戸籍法により創出した戸長副戸長は廃止した上で、地方にすでに設置されている大小区を容認し、その長を区長とする考え方が生まれ、10月10日、大蔵省布達第164号が布達された。同布達は「庄屋名主年寄等改称ノ儀ニ付当四月中御布告ノ趣モ有之候所、右ニ付テハ一区総括ノ者無之、事務差支ノ次第モ有之哉ニ付、各地方土地ノ便宜ニ因リ一区ニ区長一人、小区ニ副区長等差置候儀ハ不苦候」と戸長等の統括者として一区に区長、小区に副区長を置くことを認め、「区長差置候向ハ事務取扱方規則制限並給料共巨細取調可伺出」と区長を設置する地方は区長の事務権限や給料の支給方法を調査の上、伺出るようにと指示したのである。戸籍法によって創出された「区」は、法的に体制を整えたわけである。特に小区の設置については、10月10日の大蔵省布達第164号によって認められたとされているが(亀卦川浩『明治地方自治制度の成立過程』)、函館同様全国で既設置のものが公認されたものである。
政府の意図をまとめると、戸籍法により創出した戸長副戸長は廃止し、区には区長、小区には副区長を置き、町村には旧来の町村役人を改称した戸長副戸長を置くとするものであった(福島正夫徳田良治「明治初年の町村会」『地租改正と地方自治制』)。その後、明治11年7月布告の郡区町村編制法(7月22日太政官第17号布告)によって郡に郡長、区に区長、町村には戸長役場が設置され新制度の戸長が置かれるまでこの体制が続いた。