大区扱所・小区扱所

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 その後、この扱所という名称は、大区扱所と小区扱所とに二分されるようになるが、函館では最後まで大区扱所が有名無実であったため、いつからそうなったのかは確認できなかった。ただ、全道一律に大小区制が実施された明治9年9月以降は、大区扱所、小区扱所の名称は定着しているようで、この頃ようやく扱所体制が整備されたのであろう。この大区扱所が、翌10年5月に「従来各町ニ取設有之大区扱所及ヒ会所等(函館町会所ヲ除)ハ、自今開拓使第何大区区務所ト改称シ、左ノ雛形ノ通印章彫刻相添可申届出、此旨相達候事、但小区ノ儀ハ従前ノ通何大区何小区扱所ト可称事」(明治10年「函館支庁日誌」道文蔵)との達書をもって区務所と改称された。しかし区務所となっても大区事務が函館町会所において取扱われることには変わりなく、形式的には3つの区務所が町会所内という体制であった。この大区は小区に区画され、「小区扱所」というものが置かれた。「小区扱所」は、小区内限りの事務を取扱う町用掛の事務所といえるものである。函館では小区の規模等を考慮してか、14大区の1、2、3小区と16大区の2、4、5小区は連合して小区扱所を持ったので、函館市中の小区扱所は全部で11か所であった。この小区扱所には、事務担当責任者である町用掛1人と書記小使が適宜配置され、その小区の諸務を担当したのである。ただし、明治5年10月の段階で、住民の転居届である贈籍状を取扱う事務所として、「戸籍取扱所」というのが存在していたという記録がある(田中家文書「諸用留」)。贈籍状の書式をみると、この戸籍取扱所の担当者は町用掛のようで、大小区画が設定された当初は、小区単位の事務取扱所をこのように呼んでいたのかもしれない。また、開拓使が函館で執務を開始した明治2年10月には、「取締所」というのが存在したとの記録もある(山越内村帳場「触書留」)。この取締所というのは、開拓使の農政掛(民政担当係)が諸願伺届の提出先としてまず指定した所で、市在に何か所も存在しており、函館市中では高張提灯を掲げる所の1つとして記されており、これも小区扱所の前身といえる存在なのかもしれない。