その後町区総代人が誕生し(後述)、これら人民の共有物は総代人(の会議)の所管となったが、取扱事務等は区務所が担当しており、実務責任者は町会所出納取扱副戸長(山崎清吉)であった。次いで明治13年1月、函館区役所が誕生すると、区役所は町会所蓄積金の出納事務を町区総代人の手に委ね、区役所は監督のみを担当する方針を示した(明治13年1月18日「函新」)。町区総代人は協議の結果、共有物取扱人を置くことに決し、区役所はこれを受入れ取扱人として退任した前戸長伊藤重兵衛を選定(月給8円という)した。出納責任者は区務所の町会所出納取扱戸長から共有物取扱人へと変わったのである。この時から名称も町会所共有金と変わった。
区務所は廃止されたが町会所は共有金取扱という最も市民サイドの箇所が存続した。出納表に「(出納内容を)詳細閲覧致族ハ函館区役所内町会所ヘ出頭帳簿閲覧」とある通り、町会所は区役所内に置かれ、共有金の事務を取扱う所となった。大小区制のとき、大区費を徴収するため「区務所経費追算払大区割計算表」を半年ごとに公表したが、町会所名で出されたこの計算表は「細目承知致度向ハ町会所ヘ出頭帳簿閲覧」とあり、区務所が町会所内に置かれる形をとっていたのが、逆に区役所内に町会所が置かれたのである。
次いで明治14年に函館区会が開設され総代人が廃止されて区会議員が誕生すると、共有金取扱も区会が担当することとなり、第1回通常区会で改めて函館区共有財産所務規程が議決された。規程は第1章の総則と第2章の取扱人所務心得からなり、総則では、共有財産の管理については議会の請願により区長が管理責任者となり、出納は議会の決めた科目で行い、増殖のため預けるところは第百十三国立銀行とし、所務担当者として共有財産取扱人及び小使各1名置くことなど共有金管理の基本が示されている。明治10年末の町会所出納調査以前は市中商人へ貸付けて増殖を図っていたが、出納調査以後は貸付会所に預け替えが行われていた(「町会所蓄積金明治十一年出納表」『桜庭為四郎文書』道図蔵)。区会誕生と共に函館市民が興した第百十三国立銀行に預けられることが明記されたわけである。この時町会所共有金から区内共有金へと名称が変わり、町会所という名称も自然消滅となったようである。
この町会所という名称が復活するのは明治19年である。市中商人が同業組合を作ってしばしば会合を持つようになり集会所の必要性を痛感し、区民集会所を作ることとなった。この集会所に「穏当なる古称を復習し用ふる」ということで町会所という名称が付けられ、19年4月に富岡町に建設されたのである。洋風2階建84坪(本屋)の町会所の運営は町会所取締(初代取締今井市右衛門、副平田兵五郎、同工藤弥兵衛)が担当し、運営費については明治22年から区内共有金の枠内に組み込まれ、共有金取扱も担当することになっている。
また第1回区会には区内共有金収支予算調が議案として提出されているが、町会所共有金の出納表とは若干趣を異にしている。つまり当該期間内の増殖額が収入額として、管理のための必要経費と学資補助金が支出額として載るだけで、基本金(元金)の動きは収入と支出の差(元金への組入れ部分)を含めて内部処理となったようで、基本金の動きについては区会の場には議案として提出されていない。共有基本金が区会の場に登場するのは明治20年代に入ってからであり、区の共有財産について「函館区有財産明細表」として「函館区事務報告」と共に区会に示されるのは、明治32年の自治区制実施以後のことである。