常備倉払下げ運動の余響

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 14年10月12日、10年後の国会開設を約束する詔勅が出たところで、国会開設請願運動に奔走してきた人々はただちに政党作りに着手、29日まず自由党が誕生した。東北自由党の布施長盛の遊説を受け、本道からただ1人この結党会議に列席した室蘭の本多新は、帰路函館に立寄り、常備倉払下げ請願事件の渦中にあった山本忠礼らと懇談、自由党の概要を伝えた。
 山本、井口、工藤、林、枚田、杉野の6人は、自由党の趣意に賛同し盟約書を本部へ送り加盟した(14年12月14日「朝野新聞」)。この後彼らが自由党員としてどのような活動をしたのかは不明であるが、16年の北海自由党結成運動では中核となったようである。明治16年の函館県警察の調査では、井口兵右衛門、杉野源次郎、工藤弥兵衛、林宇三郎、枚田藤五郎、石田啓蔵、山本忠礼、小野亀治の8人が東京自由党隠然加盟者として報告され、「井口杉野枚田ノ三名連署、余ハ銘々(工藤弥兵衛と小野亀治を除く…筆者注)近々脱党ノ事ヲ東京ヘ申入レ、元来自由説ヲ称フルト商業上大ヒニ不便ヲ生ルト感シタリ、依テ自由党ハ脱党セリト称ヒ居ルナリ、工藤弥兵衛方ヘハ自由新聞社より新聞ヲ送致セリ、故ニ一人東京へ機脈ヲ通シ居ル模様アリ」と書き添えられている(明治16年「滞京中内状留」道文蔵)。
 また、常備倉払下げ再請願者のうち函館区会議員の職にあった石田啓蔵、井口兵右衛門、工藤弥兵衛、枚田藤五郎、林宇三郎の5人は15年1月16日、再願書を提出したのは、函館市民の総意を代弁しようとしたこと以外他意はなかったことを強調した辞職願を桜庭区長心得へ提出、同年5月辞職を認められた。
 常備倉は、開拓使廃止後函館県、北海道庁の所管を経て、常備米制度の廃止に伴い、明治23年6月24日、函館区へ7000円(明治22年7月15日区会議決、金2万円10か年賦で道庁に申請)で払下げられた。