官有倉庫

601 ~ 602 / 1505ページ
 貢租米納制は、明治4年の廃藩置県によっても変わることなく、5年に金納を認めた。明治5年太政官達231号「府県貢米納方規則」を設け、貢米の東京、大阪回送をやめ、最寄りの港の倉庫で検査、収納することにし、幕府、各藩の倉庫は、それぞれ政府直轄および各府県(北海道は開拓使)が没収し、官有倉庫とし、明治8年、太政官達第129号「官有倉廩管理規則」を府県に通達している。
 明治6年の地租改正条例により、地価の100分の3を地租として金納することに定められ、明治9年4月1日施行という租税金納の大原則が実施の後、この官有倉庫は不用となるはずであったが、経過措置として半額まで代米納または預かり米制度が認められていたので、従来の貢米官倉は、いくらかは代用されていた。22年勅令第107号で、同年限り代米納制を廃止し、したがって預かり米制度も廃止となった。
 倉屋敷制度も、明治2年6月22日の太制官達で廃止となった。明治4年7月廃藩置県の後、蔵屋敷は官に没収されたが、すでに大部分の蔵屋敷は民間に渡っていた。この蔵屋敷は、極めて安価に処分されたので、「天下の台所」たる大阪に「蔵持とする貸庫業者を発達せしめ、東京に於ては、問屋の倉庫の差配人に過ぎなかった蔵法師をして独立の貸庫業者たらしめた場合もある。その後所有者をしばしば変転したものもあったが、後年営業倉庫の成立に寄与すること少なからざるものがある」(前掲書)。
 明治政府は凶作、凶作予防のため徳川時代のいわゆる三倉制度を継承し、「府県施設順序」(明治2年)、民部省達第407号(3年)、「貯蓄米条例」(8年)、「備荒貯蓄法」(13年、太政官布告)などを発したが、「明治十年代には、貨幣経済の浸透により面目を改め、金銭貯蓄法を主とするに至り、従って、官倉として義倉用倉庫を利用する必要は著減していた」(前掲書)。