明治初年、米商マウス商会、米国太平洋郵便会社が活躍、政府はこれに対抗して明治5年8月、日本国郵便蒸汽船会社を設立させたが、これらの定期船会社は、営業上倉庫を必要としたのでそれぞれ倉庫を所有または賃借し、荷役には荷役請負業者を使用した。この会社は函館石巻間の不定期航路も持つ。その前年岩橋万造らの回漕会社は、横浜函館間の定期蒸汽船航路をもっていた。函館では専ら、開拓使の官有上屋、倉庫を利用していた。この会社は弱体で、政府が全面的にバックアップしたのに、8年には潰れ、三菱会社が代って進出してくる。そういう弱さがあるということは、商人資本との結びつきが弱いということでもある。ということは当時、問屋が代表する商人資本が蔵を自分で所有していたのだから、倉庫とのつながりが弱いということでもあろう。さればとて、自分で倉庫を建設する資金もあるはずもなく、たとえあったとしても、取扱貨物量が神戸、横浜とは比較にならぬ程小さい函館に倉庫を建てる理由がない。やはり、明治10年代になるまでは、商人資本が、倉庫を所有し、海運をも支配していたというべきであろう。
明治3年10月九十九商会は、5年三川商社と改称、6年3月三菱商会と改め、8年5月三菱汽船会社、9月郵便汽船三菱会社とめまぐるしく改称、4年5月から炭坑業、6年12月から鉱山業を開始していたが、海運業に関連し、最初から多くの倉庫および地所を所有、事業の進展に伴い、各地において倉庫の新築、買収をした(『日本倉庫業史』)。三菱が倉庫を持つということが、商人資本から、海運が独立分化する大きな基礎条件となったといえるのではなかろうか。荷為替業務も倉庫を所有、あるいは借庫することで容易となる。明治8年に東京~函館間に定期航路(汽船)を開いた三菱は、同年函館に支店を設立した。この時は、三菱は、税関の上屋を活用、倉庫とした。『北海道倉庫業』に次の説明が記されている。税関上屋(明治9年9月、西上屋1棟120坪建設、18年東上屋132坪建設)は、「海外輸入ノ貨物ニ対シテ開放ナリシヲ以テ当時郵便汽船三菱会社等ノ請願ヲ容レ差支ヘザル限ニ於テ内地廻漕貨物(即チ沿海通航船ノ貨物ナリ)、出入ヲ許シタリ、而シテ当時三菱会社ハ十年西南事変ノ際、政府ニ於テ購入シタル汽船ハ事変戡定後同社ノ運用ニ帰シタル等、内国汽船ノ数ハ此頃ヨリ俄カニ増加シ海運事業大ニ勃興シ従テ本港ト他道間トノ往復頻繁ヲ来タシ運漕貨物亦頓ニ増進シタルヲ以テ本関上屋ノミニテハ自然狭隘ヲ感ジ運輸上少ナカラザル不使ヲ来シタルヲ以テ三菱会社ノ請願ヲ容レ人民一般ノ貨物ヲモ出入セシムベキ条件ヲ以テ同社ノ自費ニテ本関構内東側ノ地ニ上屋ヲ建造スルコトヲ許可シタリ、是即チ明治十二年七月ナリ」。
運送貨物の増進は上屋建設に止まらない。15年2月には、煉瓦造倉庫を新築し、外国保険会社と3万ドルの保険契約を掛けている(前掲書)。特に三菱のような定期船航路を持つ海運資本の場合、入出港の月日、時間が一定しているため、その一定月日までに一定量の商品を集貨し、また入港の際、荷役時間に制限があるため、一定時間内に荷卸しをする必要があり、どちらにしても倉庫が必要となるのである。