定期船・不定期船と営業倉庫

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 三菱会社の独占の弊害を憂いた政府の三菱抑制政策の後援をバックに、明治15年、北海道運輸会社が出現する。開拓使系の「堀基主唱となり、杉浦嘉七、常野正義、園田実徳ら発起人となって政府所有の船舶貸下げの許可を得たので、廃使直後の十五年三月資本金五十万円をもって北海道運輸会社を設立し、堀基を社長として函館運漕社内で開業した。……間もなく共同運輸会社の設立が具体化したので、同社はこれに併合した」(『函館海運史』)のである。
 明治15年7月、反三菱の東京風帆、北海道運輸、越中風帆の3会社が合併して、資本金300万円の共同運輸会社(社長伊藤雋吉海軍少将)が設立された。同社函館支店支配人が園田実徳である。明治18年、同社と三菱が合併して日本郵船が設立された時、すでに倉庫、建物、地所を所有していたようである。『初代渡辺孝平伝』に、初代渡辺熊四郎が不用となったそれら一切を買取って倉庫業を始めたと書かれている。
 明治20年代、30年代、営業倉庫が独立の産業として定立するに及んで、自社倉庫所有の必要がなくなった。「船会社の営業には倉庫は不可欠の施設となっていたのであるが、間もなく営業倉庫が出現、発達するに及んで、海運業と倉庫業は分化し、倉庫会社が、斯る船会社の倉庫を賃借するという傾向を生じた。即ち船会社が荷捌施設として設けた倉庫に保管したままで倉庫証券を取得しようとする需要が生じた」、「なお官公設の上屋も整備、充実してきたので、船会社の倉庫は次第に整理され、日本郵船では、日露戦争後各地倉庫を多く処分した」とある(前掲書)。
 この「海運業」と「倉庫業」の分離にいう「海運業」とは、三菱-日本郵船および共同運輸会社のような定期船による「海運」を指していうのでなく、不定期船による一般海運業である。営業倉庫は、海産物のような北海道の特産物を扱う国内商業および、そのための不定期内国海運の急激な発展が生み出した倉庫需要と、もう1つ倉庫に預け置いた商品を在庫のまま、売買、あるいは質入する信用取引の必要とによって、出現し、発展したというべきであろう。営業倉庫では、輸出入貿易の商品および定期船による海運貨物は、原則として扱ってはいない。