洋々たる前途

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 商業隆盛な函館倉庫業の前途は洋々たるものがあった。業界では、このことを疑う者はいなかったようである。明治32年、函館の有力商人平田文右衛門外13名がまとめた16章にわたる意見書「函館ノ急務」の第7章は「広ク海陸ノ産物ヲ集積スルニ足ルベキ大倉庫ヲ造営スル事」を力説、明治25年~29年間の輸入(輸移入のことであろう、筆者)実績および函樽鉄道開通を見込して、明治40年代の貨物量は現在の2倍以上、従って、明治29年の倉庫容積1万1975坪の2倍以上、2万7500坪「ニ増加セザルベカラズ、假令区内ノ空地ニ漸次小倉庫ヲ増設スルモ将来輸入ノ大膨張ニ応ズルニ足ラサルハ言ヲ俟タズ、故ニ今後ノ策タル海岸町辺ノ浅瀬ヲ埋立テ相当ノ大地積ヲ得テ大汽船ノ出入シ得ベキ、溝渠ニ附帯シタル大倉庫ヲ建設シ以テ函樽鉄道線路ニ速路スルノ外ナキナリ、今之カ設計ヲ案ズルニ倉庫全体ヲ煉瓦造トシ桁行五十間梁間ノモノ八棟、桁行七十間十五間ノモノ四棟合計十二棟ヲ新築スルモノトセバ其建坪一万二百坪ヲ得ベク……、総工費一五三万円……」、その他事務所、物置、見張番などの付属建物および起重機、貨車、電気灯、電話を備えた堂々たる大倉庫群建設の必要を力説している。その1か年の総収入を21万4200円と見て、営利事業としても甚だ有利だと、意気盛んに揚言している。
 ところが、思いがけない障害が突発した。明治40(1907)年8月の大火である。函館商工会議所発行の『函館経済史』には次のように書かれている。「偶々明治四十年八月の大火災によって、営業倉庫中金森倉庫は六棟を、安田倉庫は五棟を類焼し、また一時運送貨物を保管する日本郵船会社の大倉庫八棟を初め、其の他倉庫の焼失もあって、焼失倉庫五三棟(一九、八〇〇平方メートル)に及び、在庫品の損害も海産物、米穀、荒物雑貨等六百万円の大損害を蒙り、市場に大頓挫を招来し、函館の商業上実に言語に絶する大損害を蒙ったのであった」。しかし、「倉庫業界は、元来富商有力者の経営であったため、復興順調に進み、従前に倍加する再建をなし、間もなく隆々と営業を継続したのであった」(前掲書)という驚くべき早期の再建でであった(表5-9)。この表からもわかるように、圧倒的に不燃質の倉庫が建てられたことが注目され、ここに、若松町、海岸町始め、地頸部以東への進出を含めて、大正、昭和の函館の経済の黄金時代の幕が開く。
 
表5-9 明治42年12月現在の営業倉庫一覧
倉庫名
不燃質建築
木造建築
坪数
坪数
坪数
函館倉庫
藤野倉庫
金森倉庫
安田倉庫
竜紋倉庫
弁天倉庫
共栄倉庫
葛西倉庫
本庄倉庫
6
4
4
4
2
4
4
1
1
30
1,052
414
1,180
1,240
434
1,872
1,546
422
132
8,292
1
 
 
2
4
2
 
1
 
10
140
 
 
488
720
360
 
22
 
1,730
7
4
4
6
6
6
4
2
1
40
1,192
414
1,180
1,728
1,154
2,232
1,546
444
132
10,022
『函館経済史』より
金森倉庫は元渡辺熊四郎倉庫のこと