倉庫業は、本来、商業資本に属する店蔵(官有を除く)から出発するが、函館の倉庫業が独立分化した明治20年代、30年代には、すでに海運業が盛んに活動していた。函館の倉庫業は、明治時代は、すべて西部の臨海部の埋立地に立地しており、海運業と並立し、密接不離の関係を保っていた。
当時の船舶はすべて沖泊りであったから、本船と倉庫を中継する艀荷役が介在していた。艀業者を含む港湾運送業は、ほぼ蒸汽船と営業倉庫業成立の時期、すなわち、明治20年代に準備せられ、30年代に、海運、倉庫業の下請の形ながら業種として確立したのではないかと考える。
このように見ると明治時代の函館経済を商人資本が指導したとはいえるが、商人資本時代と規定するのは、問題であろう。産業資本生成の時代というべきではないだろうか。商業のような流通過程から出て、海運、倉庫、そして、港運のような生産過程に属する業種が分化し独立して行くプロセスは、日本における工業の成立、発展に先行し、並行する運輸交通業成立のプロセスであって、それこそ、日本の産業革命を基礎づけ、助長して行った産業資本の一部を成すものである。函樽鉄道が加わり、それに運輸交通業ではない船渠会社、セメント会社の成立を合せると、明治20年代から、函館経済は、海運を中核としつつ、日本の産業資本成立の場をも形成して行ったと考えてよい。しかも東京以北最大の……。函館経済人のリーダーは、産業資本家であったといってよいのではないだろうか。以上が第一にいいたいことである。
第二に、函館港が、北海道各地各港の基地港、母港をなし、本州とくに東京、横浜、大阪、神戸資本そして本州農民、没落武士等、賃金労働力の中継基地であったということを背景にして、始めて営業倉庫の成立、発展をみたということである。
第三に、営業倉庫生成の条件が、銀行などの金融機関の存在であったことは事実だが、営業倉庫が金融機関の函館集中と、その隆盛の原因ともなったともいえる。銀行などの金融機関の立地点が、倉庫業立地の臨海部に接続した西部商業地区であることは、その象徴であろう。『函館商業会議所年報』の諸会社表を見ると、銀行は、末広町、東浜町あたりに集中的に立地している。保険業、保険代理業も、海運と切り離して考えられぬこと、倉庫業と同じである。その函館港集中も著るしいものがある。