敷設実現への課題

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 ところでいざ敷設するためには、一大隘路が存在し、容易に実現することは不可能であった。一つには膨大な資金が必要であった。小樽、函館間の158マイル余(当時の路線、現在では252.5キロメートル)の長距離であり、しかも平坦地が少なく、函館から数えて峠下トンネル、礼文華の数多くのトンネル、小樽-余市間の険阻な海岸など難しい地形をトンネルでくぐり抜けての難工事の連続である。したがって、膨大な資材と労働力が必要であった。いかに富裕な函館商人、小樽商人といえども、手の出せる額ではなかった。国費で負担すべきであったが、日清戦争を終え、日露戦争をひかえて軍事費に巨額の予算を割かねばならぬ国家財政は、函樽鉄道に国費を投じうる余裕はなかった。
 二つめは、道庁、すなわち、国の基本方針が北海道の鉄道建設に関する限り、内陸部の拓殖を目的とすることに決定したことであった。これについていみじくも「小樽新聞」(明治28年6月2日号)が奥地鉄道、殖民鉄道と名付けた。函樽鉄道は、道庁の奥地殖民鉄道敷設を背景として、私設鉄道としての性格をいよいよ濃厚にしていく。
 三つめは函樽鉄道に貨物の集貨能力が不足だということである。本来、北海道の鉄道は、貨物運送用として発足した。たとえば、茅沼炭坑の坑口から海岸の牛力輸送軌道は、蒸気機関車で牽引されたものでないため、北海道最初の鉄道とはいいかねるが、ともかく、これは茅沼炭坑の石炭を函館に輸送するために作られた。なおこの石炭は、海岸から艀または川崎船で沖または岩内港碇の汽船まで中継、汽船により函館に輸送する(和泉雄三『炭坑下請の研究』)。
 明治30年の道庁の殖民鉄道案は、これとは異なり、貨客両用の本来の一般公共用鉄道であったが、しかしその運送目的に、奥地の木材その他の貨物、食料、燃料などの運送の重要性を置いていたことはいうまでもない。奥地開発とは、殖民による産業開発だからである。農業、林業などの産業が興り、ほうはいとして生産物が産出されることこそ、殖民の最終目的の1つでなけれなならない。もう1つは、殖民による北方ロシアの侵略防止用の人がき的防備力の創造であろう。しかし、函樽鉄道は、そのような集貨能力は始めからないと予想された。