京都、東京有志の出願

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 北海道の内部から、札幌、函館の2都市に函樽鉄道創立のための有力な組織が結成されると丁度同じ頃、折から日清戦争後の好況と一斉に起こった全国的鉄道ブームの波に乗りおくれじと、遠く京都の「有志」が函樽鉄道建設出願に名乗りをあげた。
 どういう背景の人々か、不明であるが、その出願の趣旨は重要な内容を含み、現在に連なる流れを持っている。単なる北炭=道庁=黒田清隆閥対函館商人資本プラス日本郵船という、政商の派閥斗争の次元をこえる内容である。その第一は、ロシヤの侵略に備える北海道軍事防衛論から、函樽鉄道の建設の必要を論じたものであり、事実、日露戦争の切迫と共に、陸軍参謀本部の要求として具体化されている。明治28年という時点からすると、大ロシヤの帝国主義の侵略の脅威が、函樽鉄道挫折の危機を打開する重要な救急策となったことは、十分肯ける。またそれは、株式募集、政府補助の重大な援軍となったと考えられる。後に函樽鉄道が突貫工事で完成されたのは、事実、この理由からである。その経済的裏づけとして、国庫補助金も支出されている。
 第二の理由は、この線が、将来、本州、北海道をつなぐ連絡線になるだろうという予想である。事実、函樽鉄道が成立したために、函館駅が建設され、青函連絡船のための函館桟橋が建築されたのである。この函樽鉄道と、青森までのびていた日本鉄道会社の東北線(青森までのびたのは明治24年)との連絡のために、すでに鉄道国有化以前に、青森港が造成され、比羅夫丸、田村丸という当時世界最精鋭の新造船が発注されていたのである。それは、明治40年代以降の、青函連絡船時代を予言する出願趣旨であった。