当初札幌と函館請願団が、それぞれ別にできた上、本州の関西、東京にも、機を伺うグループありという競願のせりあいは、一つの鉄道ブームの現れとでもいえるだろう。しかし、日清戦争後起きた鉄道ブームは、明治33(1900)年、34年と続く戦後恐慌により一瞬にして、冷えきった。
さて前述の請願のその後の状況はどのようになったかというと、いずれも政府の利子補助を求めていたため、すべて却下された。明治29年1月、平田文右衛門ら25人が発起人となり、函樽鉄道株式会社を発足させ請願するが、これも却下された。しかし、同年6月再びその中の1人平田文右衛門が中心となり、創立認可を出願した。一方、帝国議会は明治30年3月31日に法律第35号「明治二十九年法律第九三号北海道鉄道敷設法予定鉄道線路中次ノ線路ハ私設鉄道会社ニ其ノ敷設ヲ許可スルコトヲ得、後志国小樽ヨリ渡島国函館ニ至ル鉄道」を公布した。
続いて、4月29日函樽鉄道株式会社発起人、平田文右衛門ら200名に仮免状がおり、同線の実地測量を許可した。そして、創立委員長を北垣国道とし、32年10月東京で創業総会を開いた。ここで取締役を選び、北垣国道・高島嘉右衛門・近藤廉平・園田実徳・坂本則美・阿部興人・高野源之助・片岡直輝・稲垣貞次郎、監査役として対馬嘉三郎・竹村藤兵衛・平田文右衛門の12名が選ばれた。役員は互選により、社長が北垣、理事に園田と坂本がなった。
発足時の専務理事園田実徳の自作履歴書(大正4年作)によると、彼は、鹿児島藩の士族に生れ、黒田清隆参謀指揮下に戌辰戦争を戦った。明治5年開拓使出仕、佐賀、西南の役に政府軍の一員として戦ったのち、15年7月開拓使付属船を借りて北海道運輸会社を創設社長に就任、同年、渋沢栄一、益田孝、伊藤雋吉らと共同運輸会社創立委員、16年、共同運輸会社と合併、同社函館支社長、三菱と共同運輸合併、日本郵船創立後同社函館支店長、25年吉川泰次郎、遠武秀行、堀基らと北海道セメント株式会社を創立、その社長となっている。以来、一貫して彼は、函館経済界の代表者となっている。というより、函館資本と、黒田清隆以降の北海道開拓使-道庁との連絡役を勤めている。
この園田を代表者として、函館経済界は、函樽鉄道開通に全力を投球する。