移出入価額の推移

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 いま、日清・日露の両戦争を含む明治2、30年代の函館商業の推移を内国貿易価額からみると、表6-7のとおりである。福山、江差とならんで近世には松前三湊といわれた函館は、福山江差両港が3県期の不況下に急激に力を失ったのに対し、明治18年には、管外移出額が268万円余、全道の43.7パーセント、管外移入額が441万円余、全道の55.4パーセント、移出入総額では710万円余、50.3パーセントを占め、北海道内国貿易の過半を独占していた。
 明治18年以降、明治43年までの25年間の函館の移出入の推移を、明治18年を100とする指数でみると、移出では、明治23年224.8(603万円余)、明治28年190.9(512万円余)、明治33年449.6(1207万円余)、明治38年467.9(1256万円余)、明治43年811.8(2179万円余)と8.1倍の増加、移入では、明治23年192.1(848万円余)、明治28年181.8(803万円余)、明治33年436.8(1929万円余)、明治38年325.9(1440万円余)、明治43年630.8(2786万円余)と6.3倍の増加、移出入総額では、明治23年204.5(1452万円余)、明治28年185.2(1315万円余)、明治33年441.7(3137万円余)、明治38年379.6(2696万円余)、明治43年699.2(4966万円余)と7.0倍に増加した。
 
 表6-7 北海道管外移出入物品価額港湾別
年次
区分
全道
函館
小樽
江差
室蘭
釧路
金額
比率
金額
比率
金額
比率
金額
比率
金額
比率
金額
比率
金額
比率
 
明治18
 
移出
移入
千円
6,151
7,969
14,120

100.0
100.0
100.0
千円
2,685
4,418
7,103

43.7
55.4
50.3
千円
823
1,324
2,147

13.4
16.6
15.2
千円
377
366
743

6.1
4.6
5.3
千円
307
521
828

5.0
6.5
5.9
千円





千円





明治23移出
移入
13,252
16,266
29,518
100.0
100.0
100.0
6,036
8,489
14,525
45.5
52.2
49.2
1,287
4,284
5,571
9.7
26.3
18.9
983
841
1,824
7.4
5.2
6.2
325
304
629
2.5
1.9
2.1








明治28移出
移入
18,552
21,298
39,850
100.0
100.0
100.1
5,126
8,031
13,157
27.6
37.7
33.0
5,460
7,567
13,027
29.4
35.5
32.7
1,512
1,049
2,561
8.2
4.9
6.4
705
830
1,535
3.8
3.9
3.9
40
229
269
0.2
1.1
0.7




明治33移出
移入
31,616
44,027
75,643
100.0
100.0
100.2
12,072
19,299
31,371
38.2
43.8
41.5
8,256
14,772
23,028
26.1
33.6
30.4
272
1,383
1,655
0.9
3.1
2.2
1,297
1,163
2,460
4.1
2.6
3.3
964
471
1,435
3.0
1.1
1.9




明治38移出
移入
40,131
44,427
84,558
100.0
100.0
100.3
12,563
14,400
26,963
31.3
32.4
31.9
16,673
21,751
38,424
41.5
49.0
45.4
320
1,184
1,504
0.8
2.7
1.8
1,644
1,158
2,802
4.1
2.6
3.3
1,837
764
2,601
4.6
1.7
3.1
621
563
1,184
1.5
1.3
1.4
明治43移出
移入
73,109
72,157
145,266
100.0
100.0
100.4
21,796
27,869
49,665
29.8
38.6
34.2
32,667
33,259
65,926
44.7
46.1
454
308
580
888
0.4
0.8
0.6
1,163
313
1,476
1.6
0.4
1.0
5,555
3,081
8,636
7.6
4.3
5.9
2,870
2,347
5,217
3.9
3.3
3.6

 『北海道史』付録より作成
 
 この間、明治27、8年には、日清戦争にともなう船腹の払底や薄漁による不振、明治37、8年には、日露戦争にともなう日清貿易の中止、露領漁業の途絶などによる停滞もあったが、全体的にみれば、函館の商業が著しく発展した時期と見ることができよう。『函館市誌』は、明治19年から30年を函館商業の最初の発展時代、明治31年から大正8年までを第二の発展時代、黄金時代であると時期区分しているが、いま、ここで取り扱う道庁設置から日露戦争ころまでの時期には、函館商業が著しく発展し、まさに黄金時代を迎えようとしていたのである。
 また、明治2、30年代は、日本資本主義が形成される時期にかさなっており、府県における鉱工業の発達、あるいは、農業中心の自足的経済が打ち破られたことによる国内市場の拡大が、港湾商業都市函館に有利に作用したことはいうまでもない。明治19年に新設された道庁も、開拓使以来の直接保護による拓殖政策を捨て、道路、港湾、鉄道の整備や、殖民地選定・区画測設などの産業基盤の整備をはかり、大地積の払下げに優遇措置を講じるなど、間接保護による資本家の誘致によって北海道の開拓をすすめる方針に転換した。さきにみた水産税の軽減、出港税の廃止、あるいは漁業者を束縛していた官貸付金の処分などの施策も、これらの方針にそうものであった。こうして、この時期の北海道は、唯一の辺境植民地として拓殖がすすめられることになったのである。
 囚人労働の投入によって幹線道路の築造をすすめ、安上がりの開拓をめざしたことに端的にあらわれているように、当初にあっては十分な財政的裏付けがあったわけではなく、大地積の払下げにともなう悪弊なども露呈したが、一方では、日本資本主義が展開するにつれ、中小地主層までもまきこんだ広い範囲の農民層分解は、北海道へ移住する可能性のある多数の人びとを創り出し、鉱工業の発展にともなう国内市場の拡大は、民間資本の未開地北海道への資本投下をうながす条件をととのえていった。そして、日清戦争後になると国内経済の好調に支えられ、拓殖のための基盤整備も軌道にのり、明治34年度からは北海道10年計画が発足した。日清戦争から明治30年代にかけては、国有未開地処分の最盛期を迎え、華族・政商資本や商人・地主資本の活発な活動がみられ、多数の移住民が流入し、移民流入の一つのピークをなすにいたった。
 この結果、明治18年に5万7151戸、27万6414人にすぎなかった北海道の人口は、明治38年に22万5771戸、119万2394人に達し、この20年間に91万5000人余、4.3倍に増加した。内陸部開拓の進展、農耕地の増加にともない明治33年には農産物価額が水産物価額を上回り、工・鉱産物価額の伸長も著しく、北海道の産業の構成に大きな変化をもたらした。このような北海道経済の枠組の拡大、あるいは、北海道への資本投下の活発化が、この時期の港湾商業都市函館の躍進をなんらかの形で支えていたであろうし、北海道の産業構造の変化が函館の移出入構造にどう投影したかは、興味ある問題である。
 明治18年から43年までの25年間に、函館の移出入総額が7倍に躍進したことは、すでにみたところであるが、明治43年の全道の移出額7310万円余、移入額7215万円余、移出入総額1億4526万円余に占める函館の比率は、移出額が2179万円余、29.8パーセント、移入額が2786万円余、38.6パーセントであり、明治18年段階で、移出入総額の過半を独占していたことを考えれば、その相対的比重は著しく低下した。4割ちかくを確保していた移入額はともかくも、移出額は3割を割ったのである。これに対して港湾商業都市として急成長し、その地位を固めたのが、明治18年に総移出入額で全道の15.2パーセントを占めるにすぎなかった小樽である。明治43年の小樽の全道に占める比率は、移出額が3266万円余、44.7パーセント、移入額が3325万円余、46.1パーセント、移出入総額が6592万円余、45.4パーセントで、いずれも函館を上回った。小樽と函館の地位の逆転も、この時期の北海道の拓殖の方向と密接にかかわるものであろう。