移出農産物の取引

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 開拓使の末頃に函館に集散した雑穀は、函館付近産の「地廻物」が9割、本道東海岸各地の「場所物」が1割であった。明治20年代に入って内陸部の開拓が進展すると、道外に移出される農産物が急増した。明治2、30年代の主要移出港は函館、小樽、釧路の3港で、明治20年代までは函館が最大の移出港で、内陸部開拓の進んだ30年代になると、小樽がこれにかわって最も重要な地位を占めるにいたっている(榎勇『農産物流通史論』)。
 この間、東海岸一帯の耕作者の増加により、函館の雑穀市場としての繁栄は、開拓使の末頃とは比較にならないほどで、函館商人の取扱いは、地廻物が1割、場所物が9割と全く逆転するにいたっている。
 明治36年の函館の移出上位品目には、9位に大豆、12位に小豆、14位に大麻がみられ、大豆の占有率は49.1パーセントに達していたことは、すでにみたところであるが、小樽が移出農産物の最大の市場になったといっても、農産物の種類によって相違がみられたのである。大正元年刊行の『輸出品としての北海道重要農産物』は、大豆について、「明治四三年に於ける最多額の輸出(移出のこと、以下同じ)を成せるは、小樽港の十八万九千石にして、釧路港の十三万三千石之に次ぎ、函館は約一万石なり。而して全輸出額三十八万三千石に比すれば、該三港の合計約三十五万二千石は、殆んど大部分を占むる」とし、「過去に於ける各港輸出額は、恰も大豆主産地が、渡島地方より石狩地方に進み、更に今日十勝地方に於て最も盛況を呈せるに並行して、輸出港も亦、函館港より小樽港に、次に釧路港に繁盛の度を移し、現今十勝地方を控へたる釧路港は、全輸出額の殆んど半数を取扱へる有様なり。此状況に徴するに、該港は将来北見地方の開発に伴ひ、益々発達を来する(に欠カ)至る可く、反之函館港は、寧ろ大豆産額に反して減退の有様に立ち至らんか」と、大豆取引においても、函館の衰勢は顕著になっていた。
 東海岸を商圏とした雑穀市場としての函館にとって、明治37年12月の利別、豊頃間、翌年十月の帯広―利別間鉄道の開通は大きな打撃となった。これによって、従来、大津港より函館に積出した貨物は、鉄道によって釧路に搬出し、府県に直接移出されるようになり、十勝国および付近一帯の雑穀は、全く函館商人の手をはなれ、函館雑穀商界に深刻な打撃を与えた。また、この頃になると地廻物雑穀の生産地であった函館付近では、水田の開発がすすみ、そのため雑穀の生産はきわめて少なくなってしまっていた。
 これらのために函館の雑穀商は、米穀商に転じ、副業的に雑穀の取引をおこなった。雑穀が品不足になると、小樽付近から買集めて小売営業をおこない、夏季の相場が引合う時には東京などに移出し、品不足になると逆に移入したという(「函館雑穀の商況」『殖民公報』38号)。