回漕会社の解散に先立ち通商司は頭取一同に対して国内の航路網の拡充を打診した。ところが多くの頭取はそれを断った。そこで海運事業に意欲を持っていた木村万平は従来の頭取とは別に同年12月に高島嘉右衛門ら6名を糾合して新たに東京に元組回漕会社を設立し、あわせて庚午丸の運用方を開拓使に願い出た(「諸願伺留」道文蔵)。庚午丸の取扱を許可された元組回漕会社は翌4年5月には咸臨丸の貸与を受けた。咸臨丸は3年5月からは官用貨物のほかに民間の荷物も輸送するように布達したことは前に述べたが、その後破損事故があり4年5月に修復が完了した。従来から咸臨丸の回漕方は木村万平が取り扱っていたが、同月民間の荷物を積んだ咸臨丸が横浜から出帆しようとしたさいに同地の運上所から商船免状を所持していないという理由で出帆を差し止められた。このため開拓使は政府に問い合わせしたところ官船による商人の荷物の輸送は好ましくないとして商船免状の交付を拒否された。ただし官船を商人に貸与した場合はこの限りではないという見解が示されたため、開拓使は木村万平の元組回漕会社に貸与することにした。咸臨丸は庚午丸と同じく利益金を上納する定めとした。さらに同年9月に辛未丸を貸与されたほか、5年8月には北海丸の貸与を受けた(『開事』)。この北海丸は8万8500ドルで神奈川県庁から払い下げを受けた1100トンの汽船であり、名義は木村万平のものとしている。開拓使が実際は購入しながらも木村の名義にしたのは咸臨丸の例にならい官名義による民間の貨物輸送に支障があると判断したためであろうか。開拓使は貸与料として年に1万両、6月・12月の2度にわたり上納することに定め、また東京・大阪間に開航し郵船として利用する旨の指示を出した(「開公」5731)。
これら元組回漕会社に貸与あるいはその取扱を委ねた各船の動向を函館支庁の日誌によってみるとその大半は函館・東京間の航路に就航しており、また御用荷物の輸送をしている場合が多い。したがって『新北海道史』通説第2巻が指摘しているようにその経営は開拓使の官物の輸送を主体としていたため経営が限定的なものとなり事業の永続をみずにまもなく保任社・運送社へ吸収された。