証券発行に至る背景として、私立三井銀行が未設立に終った事情と深い関係があった。明治4年7月廃藩置県が発令されて間もなく、大蔵省の機構が大改革されて、通商司が廃止されると、三井は私立三井銀行の設立を出願した。それは、当時太政官札の通用期限である明治5年末が目前にせまっていて、しかも交換されるべき新貨の鋳造能力ではとうてい多くの需要に応じきれないことが明らかであって、その応急対策としては兌換券の発行が唯一の方法であると考えられたからである。それゆえ、三井はこの情勢にみずから対応するためすすんで独自の銀行(イングランド銀行方式)を設立し、御用為替方の責任を十分に果たすとともに、それを活用することによって新しい資本への脱皮をはかろうとしたのである。ところがこの出願に対して大蔵省はいったん設立認可を与えたものの、たまたま井上馨、渋沢栄一ら大蔵省当局者の考えていた三井銀行のとろうとしていた方式が否定されて、アメリカのナショナルバンク(採用提案者伊藤博文)に範をとった国立銀行制度に採用が決定されたので、認可は取消しとなってしまった。そのかわり緊急を要した兌換券の発行については、三井の名義で「大蔵省正金兌換証券」、「開拓使正金兌換証券」を発行させることによって埋合せることとしたのである(中村尚美『大隈財政の研究』、『三井銀行八十年史』)。
さて開拓使はいわゆる開拓使10年計画を樹立するに際し、4年8月19日に翌5年より10か年間1000万両、定額米として1万4000石(明治5、6年のみ)、租税などの収益、特別交付による収入、地方費的収入などの財源を決定した。なかでも1000万両の年次別配分は、第1年度の5年が50万両であった。開拓使としては、予算増額を要求したいところであるが、国庫の窮乏が甚しく、大蔵省兌換証券を発行して一時の急を救うような状態なので、大蔵省と協議して開拓使兌換証券を発行して資金を調達したいと、4年11月に禀議を正院に提出した。その文中に、諸費の見積りはおよそ300両に及んでいるので、三井組との条約取極めの定額とその他から新貨幣50万両を準備として引当て、この金額の5倍を増加して250万両の預り手形製造、引換等を三井組に委任して通用したいと述べている(『新北海道史』通説2、『明治財政史』第12巻)。
この禀議は正院が裁可したので、開拓使は証券の発行、交換、回収等の方法について、同年同月に大蔵省と条約書(大蔵省開拓使約定書)を交換した。同時に開拓使は証券製造、発行、交換に関する諸条件を三井組に委任した規定書(開拓使三井組約定書)を三井組に交付した。三井組ではこの規定書の確守を証明するため、請書を開拓使に提出している(『明治財政史』第12巻)。
この証券を発行するに当っての条件は、大蔵省兌換証券の場合とほぼ同様で、三井組の名目取扱で発行し、総高250万円の準備としてその開拓使定額金の中より発行高の3分の1に当たる新貨幣(83万3333円余)を引当て、10年間通用することとし、期限後は開拓使が証券を引上げるとされる。また証券発行高の2割を三井組に渡したので、証券製造の紙代、銅版摺立などの入費を除いた発行、兌換の費用は三井組が負担した(『明治財政史』第12巻)。なお2割を三井組に渡す点は大蔵省と同様であるが、許可の上でなくては「恣ニ貸付方一切無用」と前者に比較して厳格な条件を付けている(『三井銀行八十年史』)。
以上のような条件で証券発行の準備が整ったので、政府は5年1月14日に布告を発布した。それによれば、在来の古金銀を引当として、正金引換証券として10円、5円、1円、50銭、20銭、10銭の6種にわたり250万円を製造し、15日より発行するということである(『明治財政史』第十二巻)。
三井組は証券引換会所を函館に設け、東京、大阪等の三井組でも兌換に応ずることを約した。このため函館内澗町の旧商社の建物を借り受けて、明治5年1月、ここに為換座の開設を行ったのであった(『三井銀行八十年史』)。