明治5年から明治13年にかけてのインフレーションの時代において、全国的に銀行設立の計画が各地に起った。農村の商品経済の発展は、農民層の分解、士族の解体を進め、資本の蓄積基盤を固めつつあった。地方的な在来産業は高物価に刺戟されて伸張され、それに結びついていた地方の国立銀行や私立銀行は繁栄をしめした。先に述べた国立銀行の設立についで、私立銀行設立許可を求める動きは三井銀行を先頭に進展した。とくに私立銀行の設立運動は、国立銀行の設立が明治12年以降、資本金の全体枠が制限額に達していたので新設を許可されなくなったこともあって、実現へと近づいた。
三井銀行が私立銀行として設立を許可されてから、とくに銀行類似会社が銀行と改称して私立銀行が増加してきた。北海道には先に述べた地場国立銀行の設立以外に、三井銀行が函館、札幌に明治9年、小樽、根室に明治13年にそれぞれ支店を設置した。また東京第四十四国立銀行が明治12年に函館、札幌、小樽、根室に支店を設置し、とくに漁業者に資金を供給したようである。この銀行の頭取は岩橋轍輔で、後に述べる山田銀行頭取となった山田慎が支配人となり、東京では国立第十五、第一銀行につぐ有力銀行といわれ、代表的士族主導型銀行であった。このように北海道に明治13年までに道外銀行の支店が国立銀行3行、私立銀行4行が支店を設置した。函館に道外私立銀行の進出は、まだ三井銀行と第四十四国立銀行の2行のみであった(加藤俊彦『本邦銀行史論』、『北海道金融史』)。