明治9年8月「国立銀行条例」を改正して銀行紙幣の正貨兌換をとりやめ、銀行紙幣発行の限度を拡大した。この後国立銀行の設立を願い出るものが多く、政府はインフレーションの弊害をおそれて、抑制政策をとった。資本金総額を4000万円、銀行紙幣発行高を3400万円とした。ついに明治12年11月免許の京都第百五十三国立銀行で資本金の制限額に到達したので、以後の国立銀行の設立免許を停止したのである(前掲『日本金融制度発達史』)。
一方明治15年6月「日本銀行条例」の制定によって、日本銀行は銀行券の独占的発行権を有することになった。これにともなって明治16年5月の「国立銀行条例」が改正され、国立銀行の営業期間は免許後20か年と定められた。紙幣発行の特権はとりあげられ、営業満期後は私立銀行として営業を継続することが許された。そこで国立銀行はその営業期限内に既発行の紙幣をすべて償却しなければならなかった。国立銀行の営業期間の満期が近づくにつれ、その延期運動がさかんになった。全国同業者を糾合して総計133国立銀行中91行(函館第百十三国立銀行も入っている)が大蔵大臣に請願している(同前、『明治財政史』第13巻)。
明治29年3月「営業満期国立銀行処分法」(法律第7号)、「国立銀行営業満期前特別処分法」(法律第11号)が成立し、これを機に国立銀行の私立銀行転換が多くなった。第百十三国立銀行は営業満期前特別処分法により、30年7月1日から私立銀行となった。また私立銀行として営業を継続することになったので、発行紙幣消却残高に相当する金額を上納するため日本銀行と当銀行の間において無利子借用の約定を締結するので営業満期国立銀行処分法施行細則第4条によって契約書謄本を進達したことを大蔵大臣に上申した。このあと6月30日に営業満期前処分を行ってしまうこととなり、ここに国立銀行の営業を終結した(前掲『日本金融制度発達史』、明治30年上半期『第百十三国立銀行実際考課状』、以下『考課状』と略す)。
そこで第百十三国立銀行が、株式会社百十三銀行(明治30年7月1日)と普通銀行へと転換するわけで、この際第1次の資本金増資を50万円とした。1株の金額100円を50円に改定し、総株数2000株を1万株にあらためた。