日本の産業革命は、日清、日露戦間期に急速な発展をとげたといわれている。鉄道の建設、紡績、織布その他の製造工業が相ついで起り、銀行の設立も僻村にまで及んだ。だが一方では、日清戦争後の経済振興期に、2度にわたる反動的な恐慌に見舞われている。それは明治30、31年と33、34年(大恐慌)であり、とくに大阪、名古屋、九州、京都などの銀行が支払停止、取付、休業などに陥った。その後日露戦争まで不景気が続き金融は緩慢で金利は低落した。銀行は明治34年を転機に集中の過程に入って新しい段階を迎えた(前掲『日本金融史』第1巻 明治期、前掲『本邦銀行史論』)。
百十三銀行の第1次増資が明治30年7月で、資本金が20万円から50万円となった。第2次増資の場合は明治33年3月で、資本金を100万円とした。第2次増資の理由は「当銀行ハ漸次業務ノ進捗ニ伴ヒ益々信用ノ鞏固ヲ謀ランタメ茲ニ資本金増加ノ必要ヲ感シ三月四日ノ株主臨時総会ニ於テ更ニ五拾万円ヲ増資スルノ議ニ決シ爾後其成蹟ノ満足ニ進ミタルハ偏ニ大方信任ノ厚キニ因ル所タルヲ疑ハス」(関川家文書・明治33年上半期『(株)百十三銀行第六期営業報告書』、以下『営報』と略す)と述べている。
増資と恐慌の時期を比較してみると、増資はいずれも恐慌の1年ほど前に行なわれている。結果的には良好な処置であったようだ。活動範囲の伸長との関係は指標としては、「コレスポンデンス」先(遠隔地の取引き先)が各地に広範囲に拡大したかどうかということで示される。明治33年上半期と明治40年上半期とを比較してみると、前者は264個、後者は392箇所で、7年の間で128箇も増加している(明治33年上半期『営報』、明治40年上半期『営報』)。
なお鉄道ブームがあったことを述べたが、明治33年5月24日、函樽鉄道株式会社より、第1回株金払込業務取扱を嘱託されている(明治33年上半期『営報』)。