三井が財閥への道を辿った際に、1つの障害に突き当った。それは政商路線からの脱皮である。例えば三井銀行は官金預金に依存して業容を拡大した反面、政府関係者が官金預金の見返りとして融資を要請した時、ルーズに資金を提供し、抵当差出や返済をきびしく請求することもしなかったから、不良債権が累積していった。明治15年末における預金の55パーセントは官金、貸出の40パーセントは不良債権であった。しかも、明治15年の日本銀行創立とともに、官金取扱は次第に同行に移るから、当然、官金預金に依存することは困難であると見通された。にもかかわらず、三井銀行は従来の政商路線を転換させえないで、不良債権を抱えたまま経営悪化を辿った。事態を憂慮した政府側の要請で、三井家の顧問格井上馨が乗りだした。三井の内部に適任者がいなかったので、外部から慶応義塾出身で福沢諭吉の甥にあたる中上川彦次郎(山陽鉄道社長)に三井入りを要請した。三井家同族、西邑虎四郎等の番頭、益田孝(三井物産社長)たちは井上の人選に難色を示すが、7月に三井銀行京都支店が取付を受けるという追いつめられた状況では、中上川の銀行理事就任を承諾せざるをえなかった。25年2月、西邑等の番頭が副長を辞任、中上川が理事から副長に昇格して銀行経営の全権を掌握した。中上川は、三井銀行の経営が政商路線に由来することを見抜いていたから、官金取扱の辞退、官金業務の必要上各地に置いていた支店・出張所廃止等を指示し、従来の政商路線を否定した上で、膨大な不良債権の一掃に乗り出し、みごとに成功した(森川英正『日本財閥史』)。
しかし中上川副長は井上の推薦によって三井銀行にはいったにもかかわらず、この問題点に関するかぎり、井上の意向を無視して、顕官に関係ある貸金でさえ容赦するところがなかった。その実例として、当時抵当係長として事に当った藤山雷太は2つの例をあげている。1つめは桂太郎の実弟がビール会社を経営するための貸金の抵当となっていた麻布高樹町の桂邸を処分したものであり、2つめは松方正義の実兄が共同借入れの抵当として差入れていた旧薩摩屋敷の処分であった。井上は、このような不良債権整理の強行に不満をもち中上川の工業化路線の批判者の1人になり、中上川は失脚同然になって明治34年病死した。このような顕官と関係ある不良貸金の続出した原因は、官金取扱の縁故に存在したのである。したがって中上川副長がそれらの不良貸金の回収を断固として強行した裏面には、官金取扱の返上が当然決意されていた。そして、それはまた支店の整理とも当然結びついた問題であった(『三井銀行八十年史』)。