このころは函館市中にも東京などから靴職人や革細工職人などがやって来て市中の需要も高まってきていた。また毛皮のなめしを希望するものが増加してきた。11年3月2日の「函館新聞」には「当港の懲役場にて懲役人が製造する品が手袋…等にて何れも良く出来るよし。又先年中南京人を雇ひ諸獣皮の製造をも受け夏中と雖も虫の付かぬ製法の由彼の時計を包むセームレール皮も製造し…」とその様子を報道し、また同年8月20日付けでは来函したイギリスの女性探検家のバード(Bird,Isabella Lucy)がイギリス領事ユースデン夫妻と懲役場を訪問した際に「…製作物の精工なるを賞賛し同場にて製せし蝋燭又ハ製革抔を買求めしハ本国へ持帰へるとの事…」といったことも伝えている。こうした需要増に対応するため高砂町の民有地1936坪余を購入して、懲役場から製革所を移転することにした。9月に事務所と工場の建築に着工して、翌年7月に171坪の建物が落成した。この間製革所の製品7枚を東京の製靴業者へ送り品評を求めた。送付先の築地の西村・依田組合造靴場は開拓使へ靴製品を納入している業者であったが、11年5月12日付の同所支配人の函館あての書簡にはその品質は見劣りするものであり、この程度の製品であれば、予定の価格も東京市場のものより4、5割も割高であり、販路にも困難があろう、製造過程にもっと留意して作らせるべきである、という実に手厳しい評価であった。製革所製品の道外への販路を開こうとしていたものの、中央で通用するほどの製造はできなかった(明治11年「取裁録」道文蔵)。しかし、その後14年に開催された内国勧業博覧会には官の部で函館支庁中村昌吉他3名で表染靴用革やセーム皮、毛皮など8品、計15枚を出品して、褒状を受けている。これまでの製造の集大成ともいうべき出品であった。中村昌吉はかつての伝習生であるが、製品改良の努力が続けられたのであろう。
一方函館における製革所の製造品の用途はどのようなものであったろうか。代表的な例として渡辺熊四郎の経営する金森製靴製造所での利用をあげることができる。12年10月海岸町で開催された農業博覧会に渡辺熊四郎は製革所の製革を用いて製造した長靴、ゴム付靴、短靴を出品して1等賞を受賞している(渡辺家「諸用留」)。またこの他に後に製革所の払い下げを受ける小川長之助らの毛皮業者も製革所製造品を利用して営業をしている。
13年になると、これまで除毛革と毛皮なめしの2業できていたものを除毛革は生皮の供給が続かないこと、また製造が充分ではなく利益があがらないという理由からなめし業を主として行うことにした。要するに除毛革は原料である牛や馬の生皮を購入して製革して販売するため、在庫がかさみがちであるのに対して、なめし業は受注で行うためリスクもなかったからであった。この年の1月に作業条例が実施され製革所経費は作業費に編入されたが、純益を得ることができず、一般経費に戻した。
表9-1 製革所製造高・収支
年度 | 製造費 | 製造量 | 製造高 | 製造高内訳 | |||
製革 | 鞣皮 | ||||||
明治10 11 12 13 14 | 円 ? ? ? 2,208 2,215 | 杖 538 1,023 2,393 2,711 2,759 | 円 ? ? 1,475 1,623 1,963 | 枚 515 779 1,110 | 円 930 943 1,396 | 枚 1,878 1,932 1,649 | 円 544 680 566 |
『開拓使事業報告』第3編より作成、14年度は払い下げの14年3月まで.
製造高の計と内訳が一致しないのは、単位未満切り捨てのため
製革所の10年度から閉鎖までの製造高や収支は表9-1のとおりであるが、相当量の扱いがあったものの、製造費に対して製造高(この場合は売上げ高を意味する)は伸びておらず収支は連年欠損続きであった。
13年11月開拓使は工場払下概則に準拠して、製革所の払い下げを図った。しかし希望者がなく、翌年2月に入り地蔵町の製革業者である小川長之助と恵比須町の牛肉商小沼庄助が連名で出願してきたので、4月にとりあえず両者へ貸与されることになった。
15年開拓使の廃止によって製革所は農商務省に移管されたが、引き続き貸与を認められた。翌16年農商務省は代価2108円で3か年賦で払い下げしたいという上請をして、17年1月に許可を得て処分した。しかし引き渡しの完了前に火災により建物は焼失したので、8月に敷地を払い下げた。小川は単独で同所に製革所を再建して経営することになった(『農商務卿第三、四回報告』)。