明治5年鍛冶村字湯ノ沢において石灰の原石が発見され、これを採掘したところ品質が優良であると認められ、勧業課所管のもとで同年石灰製造所が建設された。この地は後に上湯川村番外地(現在の滝沢町)に編入されているが同所の概要は敷地7万8379坪であり、職工場や鍛冶小屋などの施設が75坪であった。同10月に製品化に成功したので、函館支庁は同月九9日に市中へ「今般石灰製造方御取開相成最上ノ品出来候ニ付右引請売捌ノ者ハ願出ヘシ」(『布類』上編)と布達を出している。以後年々製造高を増し8年度では2万7000俵、翌9年度では1万3000俵の生産をみた。ちなみに明治10年当初は玉木篤(等外2等出仕)、箱石東馬(准等外吏御用掛)、続豊太郎(雇、同人は続豊治の孫にあたる)の3名が製造所の掛りであった(明治10年「函館庁員分課誌」)。
10年3月には2万6000俵の石灰を入札売却する旨の達しが出されている(明治10年「御用留」)。販売については機会のあるごとに入札の通知が管下になされた。しかし8年度の製造分は大半が売却されているが、9年分は売れ残りが多く、『開拓使事業報告』はその原因として製品の精度が低いことをあげている。そこで製法改良に取り組み、10年には精度を高め、また価格も廉価にして販売しようとしたが、需要が開かれず貯蔵高も増加してきた。そのため10年7月に製造高を減少する方針を固め、もっぱら在庫の販売に精力を傾けたが、売れゆきはおもわしくなく、11年には製造を中止した。翌11年6月に上等が1俵20銭、下等が8銭と石灰払い下げの公告が「函館新聞」に掲載されているのは在庫処分のためであろう。14年には開進社に貸与した。