恵山丸建造中の函館器械製造所
こうしたなかにあって翌18年には本道で始めての汽船建造が行われた。これは他からの発注ではなく職工の遊休対策として行われたものであった。4月に着工し6月30日に進水式が行われた汽船矢越丸はスクーナー形の木製船で2本マスト、65総トンの規模で17馬力(『船名録』)で、時速9英海里の性能を持っていた。船体は以前に合併の話のあった島野市郎治が担当し、機関製造主任は千田静男があたった。ちなみに千田は佐野雄太郎とともに桐野の指導下にあって技術者として育成された人物であった(前掲「景況要略」)。既存の函館の造船業界が帆船製造の能力しか持ちえなかったのに比べて100トン未満の汽船といえども、また市場が未成熟であったにしても汽船製造が地元で可能になったというのは、時代的なエポックといえるし、後の時代の基幹産業の基礎を築いた事業であった。18年4月11の「函館新聞」は「汽船新造」の見出しで「…矢越丸…来る六月中には進水に至るへしといふ、去れは北海道にて汽船新造の第一着といふべし」と着工を伝え、7月2日では「真砂町機械製造所に於て新造に成りし汽船矢越丸は已に落成に付き一昨日船卸しになったり…」とその竣工したことを報道している。矢越丸は不況という時代背景から買手がつかなかったため渡辺熊四郎の個人所有船として近海航路に就航することになった。矢越丸以降明治25年に至る同所の建造および修繕実績を「函館造船所越歴概略」でみると、恵山丸(84トン)、神威丸(144トン)、花咲丸(99トン)、小蒸汽船3艘、修繕船舶は24件となっている。