乾船渠海中締切工事 『函館船渠株式会社四十年史』より
31年から諸工事が本格的に始まるが、その前に船渠ならびに造船所予定地を水面のまま、引渡を請う願書が区長へ提出された。28年の函館区長命令書によると、予定地は「埋立成工シ、船渠会社成立ノ上」譲渡されることになっていたが、字句通り船渠予定地を区が埋立した後に引渡を受けるとすれば、そこを更に掘さくするため工事が二重となり、莫大な工費を徒消することになるから、水面のまま、引渡してほしいと出願したのである。招集された臨時区会では原案賛成の船渠派と反対派とが対立して、議事は紛糾したが可決され、4月に水面のまま引渡の許可指令書を受取ることができた。そして、区がすでに施行した箇所の工費は、函館港改良工事費の決算が終わってから、実費および利子相当の金額(後に、2万3229円を5か年賦分納した)を納付することで解決した。このように、船渠会社は「限りある港湾内に地点を占むる関係上、地方行政当局との間に面倒な問題に遭遇した事もあったであろう」(『函館船渠株式会社四十年史』)との回顧談のようなことは間々あり、それが工事の遅延をもたらし、物価騰貴と重なって工費の増大につながった。
31年8月には、平田文右衛門が専務取締役に就任し、社長は空席のまま、平田専務が経営を執行する体制をとった。