昨年十月小生出函ノ際、親シク目撃スル処ヲ以テセバ…安田銀行其他ヨリ不尠借入金ヲナシ、多大ノ利子ヲ払フノミナラズ、運転資金無キタメ当会社ノ如ク不便ノ地位ニアリナガラ材料ノ貯蔵品甚ダ少ナク、且ツ大工事ヲ請負ヒ遠隔ノ地方ヨリ職工ヲ傭入シ、工事終レバ直チニ之ヲ解傭シ、到底充分職工ヲ養成スル能ハザル状態ナリ…如此借金制度ヲ以テ経営シ、少額ノ材料等ニテハ到底顧客ニ満足ヲ与ヘ、充分ナル利益ヲ挙ゲル能ハザルハ論ヲ俟タザルベシ (「第十九回事業報告書」) |
39年1月早々より、善後策を求めるべく、さきに相談役を辞任した渋沢は再び整理委員にあげられ、近藤廉平、大倉喜八郎、加藤正義、浅野総一郎等の整理委員とともに、函館より上京した役員を加えて会合を重ねた。そして、前に横浜船渠の社長であった男爵川田龍吉に再建を託することになる。この間の事情を渋沢は明治42年の『実業の世界』(第6巻第7号)で次のように述べている。
川田龍吉が、是には大分苦しんでいる。併し性来厳格な人であるから細々ながらも維持ができるであらふと思う。全体函館に彼のやうな大船渠を作ったのが抑もの誤であった。あれは余り社会の趨勢を想像し過ぎた結果で、今になってはどうとも致し方がない。若し細々ながらも維持して行く間に、当初想像した如く社会が趨いたら、其時こそ此の会社が全盛期に入る時である。 |