37、8年

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 船渠の設備が完成した矢先、37年には日露戦役が勃発した。船舶は多数軍用船に徴発されたため、船舶の入渠・修理は激減し、期待された大船渠の築造による業績の進展はみられなかった。前掲表9-17(創業総会までの経歴)の予算収入63万円には到底及ばず、営業成績は前掲表9-21の通り、37年は欠損、38年は戦争も終結して収入は約41万と増加したが、依然欠損が続き、38年末の累積損失は8万3429円となった。安田銀行からの借入金60万円は返済期限を延期はしたものの、38年10月には返済不可能ならば差押えるという厳しい督促があり、経営の危機は極限に達した。こうした窮況に至った原因を第19回の総会(39年1月)において、株主の梅浦精一(元石川島造船所専務)は次のように発言している。
 
昨年十月小生出函ノ際、親シク目撃スル処ヲ以テセバ…安田銀行其他ヨリ不尠借入金ヲナシ、多大ノ利子ヲ払フノミナラズ、運転資金無キタメ当会社ノ如ク不便ノ地位ニアリナガラ材料ノ貯蔵品甚ダ少ナク、且ツ大工事ヲ請負ヒ遠隔ノ地方ヨリ職工ヲ傭入シ、工事終レバ直チニ之ヲ解傭シ、到底充分職工ヲ養成スル能ハザル状態ナリ…如此借金制度ヲ以テ経営シ、少額ノ材料等ニテハ到底顧客ニ満足ヲ与ヘ、充分ナル利益ヲ挙ゲル能ハザルハ論ヲ俟タザルベシ
(「第十九回事業報告書」)

 
 39年1月早々より、善後策を求めるべく、さきに相談役を辞任した渋沢は再び整理委員にあげられ、近藤廉平、大倉喜八郎、加藤正義、浅野総一郎等の整理委員とともに、函館より上京した役員を加えて会合を重ねた。そして、前に横浜船渠の社長であった男爵川田龍吉に再建を託することになる。この間の事情を渋沢は明治42年の『実業の世界』(第6巻第7号)で次のように述べている。
 
川田龍吉が、是には大分苦しんでいる。併し性来厳格な人であるから細々ながらも維持ができるであらふと思う。全体函館に彼のやうな大船渠を作ったのが抑もの誤であった。あれは余り社会の趨勢を想像し過ぎた結果で、今になってはどうとも致し方がない。若し細々ながらも維持して行く間に、当初想像した如く社会が趨いたら、其時こそ此の会社が全盛期に入る時である。