函館の経営者

1090 ~ 1092 / 1505ページ
 もともと、船渠事業を国家的必要の事業と考え、営利目的を第一に計画したものではないだけに、位置が北方に偏在して人にも物にも便益を得難い事情(『函館船渠株式会社四十年史』)が加わって、事業の創設・維持は困難を極めた。銘記せねばならぬ関係者も数が多いが船渠の設置を手がけた渡辺熊四郎(初代)、船渠会社の設立から創業にかけての経営に深く関与した平田文右衛門の2人をとりあげて述べておこう。
 渡辺熊四郎は船渠会社の生みの親であり、船渠会社の前身が渡辺等の創設した函館器械製造所(後の函館造船所)であることは、既に各所で述べられている。しかし、そのことが如何に苦しみを伴うものであったかは、次の引用で理解できよう。
 
さて造船所の事も種々困難を極めしが、明治二十三年頃より、漸く維持が立つ様になりし…船も段々多く出来し故、修繕の仕事も引続いて有やうになりしが、初め損の立つ時には持出しして、利益のある様になれば自然拡張せざれば後の仕事が出来ざる故、利益は一文も取らずに皆拡張費に充てたり、…明治二十七、八年は盛になりて職工の四百名も使う様になれり

 と、このように函館造船所の経営が軌道に乗ったところを語った後で、船渠会社による買収と続ける。
 
然るに明治二十九年に船渠会社を創業してより、函館に両立しては双方不利益なれば船渠会社に引渡す様にと余が東京に到ると其話がありしが、余は長の間丹精して漸く今日、蕾が出来て花も見ざるうちに造船所を今船渠会社に引渡すは残念なれば堅く断りしに、東京船渠会社の株主はそれが不承知ならば船渠会社を解散すると申すこと故、左すれば以前函館に船渠が必要故、此事業を計りしなれども、余の身代一人で船渠を整理して行く訳に行かざる故、已を得ず此造船所を船渠会社に引継いたして、明治三十年に器械、建物、倉庫品等も残らず船渠会社に売渡し、地所は二十ヵ年貸付ける約束に致せり、此事業は余の是迄致したる内の大困難の事でありしが、漸く無事に治めしは大に幸福にてありし、最も此事業は平田文右衛門氏が担任いたせしなれど、株は余が二人分、今井、平田は一人分にて明治十三年より二十九年迄十八ヵ年、資本を出したる而已で一文も取らずに事業をして居たり、これが他の会社の事業ならば速かに解散するならんと思へり
(『初代渡辺孝平伝』)

 

平田文右衛門

 
 渡辺は28年以来、船渠会社設立の発起人であり、また創立委員として、450株の大株主であったが、その後の船渠会社の経営には全く関与していない。
 一方、渡辺より2歳年少で、渡辺が常に相談相手として、函館造船所創立以来の仲間である平田文右衛門は、渡辺が純粋の商人型の経営者であったのに対して事業家肌であったといわれる(『平田兵五郎小伝』)。それは広範な読書と社会各方面に広く接触した結果とされている。上記の小伝に両者の性格の差異を物語るエピソードが次のように書かれている。
 
兵五郎が港湾の修築や船渠の設置等に活躍していた頃、曙町に『北のめざまし新聞』という新聞がありました、この新聞の社長小橋栄太郎は連日紙上で兵五郎を攻撃して毒筆を振ったばかりでなく、時々筵旗を押し樹て、石油缶を打ち鳴らし、一隊を率いて平田の店頭に現れ、兵五郎を攻撃しました。こんな時に彼が店にいますと、直ぐ様店先へ飛び出して、『何だ、うるさい、やめろ、さっさと行け!』と怒号しました。これに反して、渡辺熊四郎の店頭に現れて、騒ぐと熊四郎は姿を見せて、静かに『まあ小橋さん、そう怒鳴らずに、家へはいって、お茶でも飲みませんか。休んでいらっしゃい』と挨拶するのでした。

 
 また、創業総会の議事録によると、小川為次郎が「只今報告シタル如ク創業費ノ少額ナルハ、畢竟平田氏ノ終始之レニ従事セラレ、無形ノ心労ハ勿論多年ノ間自家ノ財物ヲ抛テ尽力セラレタル結果ニ外ナラズ」と発言して、渋沢会長も同意を表したのに対して、平田は次のように述べている。
 
只今、会長及ビ小川氏ヨリ、私ガ船渠事業ニ尽力セシ旨称辞アリシモ、私ガ是迄尽力シタル点ハ全ク、開拓使已来北海道庁ニ於テ築港、船渠ニ付、調査セラレタル書類其外ヲ蒐集シ置キ散佚ヲ防ギ、之ヲ参考ニ供シタルニ過ギズ、殊ニ船渠ノ事業タルヤ自分ハ国家的必要ノ事業ト認メ、敢テ微力ヲ致シタルモノナレバ、素ヨリ報酬等ヲ受クルノ考ハ毫モアラザリキ、然ルニ諸君ヨリ懇意ナル謝辞ヲ得タルハ実ニ望外ノ幸栄ナリ

 
 平田は大船渠の完成を見ずに没したが、国家のため、殊に日露開戦前でもあり、港と関係の深い海軍に貢献しようと真摯に考えて、1万トン船渠実現の素忘の貫徹を図った、まさに明治期の企業家であった。