株式所有の状況

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 なお、株式所有の状況については、表9-22が払込の完了した明治36年から38年に至る推移を示している。函館の株主は東京と比較して人数がはるかに多く、株式数では36、7年ともに若干東京を上回っていたが、38年末になると東京の株主の株式数の方が多くなっている。300株以上の大株主名は、36年末と38年末ではかわりがなく、その氏名を表9-23で示したが、300株以上の株主17名で全体の29パーセントの株数を所有している、このうち、東京が9名で3990株、函館は4名の1905株である。東京の大株主には、岡本、園田、大倉、渋沢と役員就任者がいるが、函館は平田(34年末まで300株所有)が没した後、役員はいない。永野は樺太漁業家であるが、33年の露国による漁場封鎖後に株数を増やして大株主となったものである。こうした漁業や船渠会社のような工業に投下される資本については、次のような岡本康太郎の指摘(「函館財界五十年」昭和21年1月『函館新聞』連載)がある。
 
 表9-22 株式所有状況
 
明治36年12月31日
明治37年6月30日
明治38年12月31日
株主数
株式数
株主数
株式数
株主数
株式数
函館
東京
大阪
本州各地
北海道各地
合計
171
61
21
49
31
333
8,380
7,747
3,160
2,740
1,973
24,000
169
64
21
48
30
332
8,955
7,692
3,100
2,540
1,713
24,000
156
82
22
54
27
341
7,545
8,732
3,240
2,965
1,518
24,000

 各年『事業報告書』より作成
 
 表9-23 大株主名(300株以上)
株数
住所 氏名
800
540
500
500
500
500
450
400
400
355
350
300
300
300
300
300
300
函館
東京




函館
東京

函館
東京

大阪


四日市
函館
永野弥平
岡本忠蔵
岩出惣兵衛
大倉喜八郎
渡辺治右衛門
安田善次郎
渡辺熊四郎
園田実徳
嶋津忠済
百十三銀行
岩崎久弥
渋沢栄一
外山脩
藤田伝三郎
芝川又右衛門
九鬼マサ
今井市右衛門

 明治36年末ならびに38年末の『事業報告書』より作成
 
そのころ函館は漁業のさく源地として、ことに水産業にかけてはなかなかの敏腕家もおりましたし、魚をとることもその加工もよそよりは卓越したものがありました。それだけに土地の人々も深い関心をもって漁業への投資を惜しまなかったのですが、どうしたものか固定産業に対しては案外冷淡でした。固定産業の場合ですと何年か先にならないと赤字なのか黒字なのかわからないのが、漁業ですとその年その年に精算がつく。それに網さえ入れれば大てい間違いなくとれた時代なので無難に投資できたのでしょう。こんな具合でしたからセメント会社にしても電燈会社にしても、肥料会社にしても、すべて本州人の着目と資力にまたねばなりませんでした

 
 岡本は船渠会社が渡辺や平田等によって創業された故か、船渠会社を例に挙げてはいないが、固定産業ということではセメント会社、電燈会社と同様に考えてよいだろう。資本の回転が早くて、確実に収益が見込まれ、相対的に小資本の投資で経営ができる漁業に資本が集まり、函館の景気は浜からといわれる時期がおこり、続くのである。まして当時、新開地函館の財力は、このような産業に多くの資金を固定させる余裕はなかったのである。