玄米の移入量は20年代では毎年20万石弱で、移入米の61.3パーセントであったが、30年代には10万石内外で、移入米の34.2パーセントを占めた。玄米の移入は季節的には、5月から9月までが多かったが、精米により玄米1石に付き、1割減の白米を得ることができた。精米の際生じた糠と粉米は精米所の所得となった。
明治15年5月の「函館新聞」広告に、「玄米四斗に付 搗賃一二銭 鶴岡町蒸気米搗器械所 筒井栄吉」と掲載されているが、20年代には10数軒の精米所があった。原動力は蒸気機関で数馬力程度、職工数人が規模の大きい方であった。30年代になると、蒸気機関も10馬力以上で職工を10数人使用して、年間で1万石以上の精米をする器械所も現れている。38年には、8軒の精米所で約9万石の精米をして、その賃搗料は1万8000円であった。主として米穀商が精米所を営んでいた。