大豆とならんで小豆が函館港より本州府県へ移出されているが、この北海小豆から生餡をつくり、さらに精粉した晒餡は菓子原料や即席汁粉用に使用された。この晒餡を明治16年に中川庄太郎がはじめて製造した。八雲軒と称したが、18年に小菅彦助がこれを譲り受け、子の小菅彦太郎が20年1月より盛餡社の名で営業を続けた。晒餡は貯蔵には便利であるが、日向臭といわれる悪臭を伴った。彦太郎は製法に改良を加え、小豆固有の風味をもたせることに成功したので、20年代には区内はもちろん、東京、横浜、大阪など本州各地に移出されるに至った。小菅のほかにも1、2の業者がおり、製造額は6000円をこえ、函館の一物産としての地位を築くものとなった。38年、盛餡社は10馬力の蒸気機関を備え職工4人で、使用原料は700石であった。20年代には小樽や大阪に晒餡業者がいたが、小豆に雑豆を混じており、北海小豆のみを原料とする盛餡社が最も著名であった。
このほか、農家の副業として馬鈴薯の澱粉(片栗粉)の製造があり、38年では、20軒内外で6000余円の製造額であった。