中野平吉の硝子店は、29年徒弟の和田兼吉が継承し、印硝子工場(安斉商店)と称して、ホヤ、洋燈、瓶類等を製造、区内や道内に販売した。 また、明治20年佐野寅之助が大町に、23年中村平吉が東川町に、34年島本由太郎(東京でイギリス人につき硝子製造を伝承した)が高砂町にそれぞれ製造をはじめた。佐野は31年、資本金6000円(払込済3000円)で函館硝子製造合資会社(株主60名)を設立して高砂町に工場を新築したが、2、3年で解散し、34年2月に改めて佐野硝子合名会社(資本金4300円、払込済3000円)を組織して継続するが、後に工場を小舟町に移転した。 島本、、佐野の3工場は、職工数人の雇用で、原料の屑硝子は区内ほか道内各地より集めた。なお、大阪等からの移入額は、30年代後半では4、5万円におよび、競争は激しかった。35年以降の状況は表9-37で示した。 |