帝国水産株式会社の設立

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 このような状態が続くなかで、明治21年6月、農商務大臣はラッコ・オットセイ猟の特許を出願した帝国水産株式会社に対し、向う5年間、捕獲区域を限定し、捕獲方法を定めてラッコ猟を認めた。そして特許の条件として、(1)身元保証金を北海道庁に納めること、(2)猟場区域内の取締りのため北海道庁の指名する請願巡査並びに看守人を配置すること、(3)取締に必要な船舶乗組員、付属器具を整備すること、(4)1歳未満の幼獣の捕獲と銃殺、撲殺以外の火器の使用を禁止するなど、密猟取締への協力と繁殖保護のための捕獲規制を義務付けている。
 この帝国水産株式会社は、明治21年1月に設立。資本金150万円(内、特許猟業資本金9万5000円)で、社長に河野圭一郎が就任した。当初、社名を大日本帝国水産会社(有限責任)と称し、本社を東京日本橋に置いたが、翌22年本社を函館に移し、社名も明治25年の定款改正により帝国水産株式会社に変更した。同社は、ラッコ・オットセイ獣、鯨その他海獣の捕獲の外、北海道や各地物産の荷為替と委託販売を事業とした。
 しかし、同社の事業は全般に不振を続け、特に、主業としたラッコ猟業は、経験に乏しく、かつ、猟場区域の制限をはじめ、特許に基づく種々の規制を受けていたこと、さらに所定の捕獲区域では、外国密猟船の濫獲によりラッコ・オットセイ資源が少なくなり、期待された成果をあげることができなかった。そのため、特許期限が切れる26年には、それまでの方針を改め、得撫(ウルップ)島以北は同社が引続き事業を継続し、同島以南は沿岸猟業者の組合が特許を得て、ラッコ・オットセイ猟が続けることになった。しかし、同島のラッコ・オットセイもすでに著しく減少しており、海獣猟業のみでは同社の営業は全く採算がとれない状態になっていた。
 他方、明治26年、先に述べたパリーの仲裁裁判所の裁定が決まり、アメリカ西海岸の海上オットセイ猟に対する厳しい規制措置がとられるようになったため、アメリカ・イギリス両国の猟帆船は競って日本近海に来航するようになった。
 明治29年の『函館商工業調査報告』によれば、同年中に函館港に入港した外国の猟帆船は40数隻、積載された獣皮が2万4458枚、これらは横浜に送られ、ロンドンその他外国に輸出された。この年の外国猟帆船の入港により、函館市街の賑わいは、先の新聞記事にあるような、未曽有の活況を呈したという。明治29年函館港に寄港した猟船の捕獲数を表9-74に示した。このうち我が国猟船の捕獲頭数は、帝国水産株式会社と函館の辻快三所有の猟船によるもので、10パーセント強を占めるにとどまっていた。
 
 表9-74 明治29年函館湾の海獣猟獲実績 (左:枚 右:円)
国別
ラッコ
オットセイ
合 計
日本
イギリス
アメリカ
20
4

10,000
2,000

2,589
17,157
4,688
41,424
274,512
75,008
2,609
17,161
4,688
51,424
276,512
75,008
合計
24
12,000
24,434
390,944
24,458
402,944

 明治29年『函館商工業調査報告』