函館学校改革案

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 では具体的に函館ではどのように「学制」が施行されていったのだろうか。実は函館支庁は開拓使の特例が認可されるより前の6年3月、東京上局あてに「函館学校改革案」を提出していた(「開公」5756)。これは4年に開校した学校(第1節1参照)を「学制」に基づいて改革しようという函館の学校改革案である。この改革案によると、改革は本来なら同じ官立の東京仮学校や札幌学校を模範とすべきなのだが、当地は「従来ノ開湊場ニて札幌及他ノ支庁とハ自ら景況も相異り」同一視できない面もあり熟慮中に、「天下ノ学制」が頒布された。開拓使といえどもこれを「外視」することはできないと思われるので、「収拾斟酌」し、従来の学校を廃止して小学校を開校することにして改革案をまとめたというのである。幕末からの開港場を意識した強い函館支庁の意向が感じられる。ともあれ、函館支庁はすでに6年3月には「学制」に基づいた学校教育を考え、実施すべく提案していたのであった。
 この改革案は「学制中、小学ノ規則ニ拠リ」定めたもので、「教則ハ都て小学教則を其儘」用いており、甲号(小学校案)・乙号(変則中学校案)の各学校別開校案も添えられていた。以下は改革案の大意である。
(1)将来は学制中の「女児小学以下ノ諸学校」も開設したいが、とりあえずは区内から徐々に管内へ一般の小学校を普及したい。なお両三年間は中学校は必要なく小学校のみでよい。
(2)「従前学校」(函館学校)は閉校し、生徒の内「学業進歩」の者は変則中学を開き収容し、「修業遅鈍」の者は「放逐」の予定。
(3)二〇歳以下で「皇漢洋ノ学」に通じ抜群の者は、札幌同様に官費生徒として東京仮学校に入れたい。
(4)文部省へ小学校教員三名雇い入れを掛け合って欲しい。教員は不足しているとは思うが、当地は「開湊場ニて外国居留人も数多有之、万国の目撃に触」れるので「内地各湊に亜て進歩」しなければならず、尽力してほしい。
(5)「魯学ノ儀」はいずれ「更革釐正」しなければならない状態で、今後「盛大」にする見込みなら、東京仮学校に別科として開校あるいは札幌へ開校するかどちらかにした方が良い。
(6)堀達之助の後任に葵慎吾が来函したが、「甲号ノ学校」は全く「育幼初歩ノ為ニ」開設するもので、これまで在学の青年を改革に際し「放逐」するのも「不条理」なので、在来の学校を「乙号学校」(変則中学)として「篤行有志ノ輩」を入学させ、いずれは「真ノ中学」へ移行したい。
(7)本年と明年の二か年の学校定額金は八五〇〇円とし、「甲・乙号学校費」はその中でやり繰りしたい。
(8)葵慎悟の給料は高額なので「乙号」の教官を減員し、葵を教官の長として対応したい。

 この案に対し東京上局は、(3)については「其時々人物保証書」を添えて伺い出ること、(5)については教師としてサルトフ氏を採用・派遣したので予算内で賄うようにとした上で、6年6月に「学校更張大意建議ノ通」と指令を出した。
 上局からのサルトフの派遣と、その後の函館での状況変化により、この学校改革案は一部修正されたが、8月12日、「文部省学制変則中学尋常小学各一校ツゝ取立候事、但場所及規則等ハ追テ可相達候」という布達となって具体的に区中に布達された(明治6年「御達書留」)。函館でも「学制」に準じた学校教育が実施されることになったのである。