管内説諭

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 学校を開設することになった函館支庁の次の課題は児童の就学奨励であった。前述の「被仰出書」を受けて函館支庁は、区中へ「管内説諭」(杉浦家文書・明治8年「御布令」)を達して、就学を奨励した。
 この「管内説諭」で函館支庁は、学業とは「人々立身治産昌業遂生の道」であり「全く吾が一身上」の務めであるから「費用は悉く民間に課」し、政府の務めは「只其為学の方向を誤らない」ようにすることのみにあると、政府の学校教育への考えや「学制」の精神を強調した。そして函館の人民を「従来学事に心掛け厚からず…只従前の弊風に依著し教育の事は官に依頼」するのみと分析、「日本五港の一にして他の各県の上に位」しながら「有志の者」がいないのは「実に各県の官民に対し恥べき」ことと有志らの奮起を促し、「官に於ても従前教育の方法或は其宜き得ざるものなり」と自らも反省、今後は「一層注意を加へ、其適宜を考へ、悉旧弊の害なるものを除去し、専ら学制の旨趣に基き」順次に施行していきたいとした。そして新設の費用などは「人々協同の心を以て其義務を履み、各自貧富の分限に応」じ醵金し、「各府県の人民に恥ざる様」心掛るべきことと、常に他府県を意識させ開港場のプライドを煽るような形で区民へ説諭をした。
 また区民の就学を奨励・説諭し、学校新設に尽力するなど、区内の学事を世話する「学務世話係」が置かれ、8年3月戸長の白鳥衡平・杉浦嘉七・井口嘉八郎の3名が任命された。学制では土地の名望家を選んで教育行政の単位である中学区に12、3人の学区取締を置き、各取締に2、30の小学区を分担、指導・監督させたが、学務世話係の場合はそれほど強い拘束力は無く、むしろ奨励や世話という啓発的な意味合いをもったものだった。