函館幼稚園の園児たち 後列中央が武藤八千
20年6月、旧北海道師範学校函館分校校長の素木岫雲は附属小学校跡地に私立函館学校を開校、その校内に私立函館幼稚園を開設した。函館での私立幼稚園の始まりである。開園に先駆け「函館新聞」には「年齢三歳以上六歳未満ノ幼児二十名入園差許候間、志願ノ者ハ申シ出ヘシ、但シ授業料五十銭」(5月17日付)という園児募集広告が掲載された。50名の園児を迎え、6月4日、開園式が行われた。この函館幼稚園も前述の仮幼稚園と同様、函館学校の中に付属施設として設けられたもので、独立した幼稚園ではなかった。同年末の『函館区役所統計概表』によると教授者女1名、幼児男24名・女26名となっている。教授者とは武藤八千と思われる。
函館に独立した本格的な幼稚園が開園するのは、実は翌21年になってからだった。入園希望者が多く函館学校内の施設では手狭になったため、有志の賛助を得て、武藤八千が新たに独立した私立幼稚園を開園することになり、21年5月渡辺熊四郎を保証人に、北海道庁へ函館商業学校校舎の一部拝借願いを提出(渡辺家文書・明治20年「諸用留」)、翌6月1日、旧函館幼稚園の園児を移し私立幼稚園が開園した。園の名は旧名を引き継ぎ私立「函館幼稚園」とした。武藤はさらに幼児50名を募集し保母も2名増員、独立した施設での本格的な幼児教育を始めた。「函館幼稚園規則」(6月24日付「函新」)によると3歳以上6歳未満児が対象で、保育時間は約3時間、保育料は月額50銭となっている。また保育内容は修身・体育・智育科の3科に分かれ、これら3科の指導は修身話・読方・数え方・唱歌・体操のほか五彩毬遊び・木の積み木・板並べ・豆細工・紙折りなど教具や遊具(当時はこれらを″恩物″といった)を使った指導の中で行なわれた。
当時の「函館新聞」には渡辺熊四郎・園田実徳らをはじめ函館幼稚園への寄付人名が載っているが、有志の醵金によりようやく維持の見込みが立ち諸器械なども整頓しはじめた22年2月、函館商業学校の火災により函館幼稚園は焼失してしまった。一時元町の英語学校内に仮設されたが、これを同年4月限りで閉鎖し、会所町59の旧師範学校宿舎(函館学校跡)を改築して、7月1日に函館幼稚園が再開された。再開後の函館幼稚園については「開園以来事業ニ弛張アリト雖モ今日ニ至ルマテ能ク之ヲ維持シ、該園ノ課程ヲ卒リ小学校ニ入ルモノハ学業品行共ニ優良ナルノ形蹟アリ、其公学ニ補アル少ナカラサル」(明治25年「北海道庁学事年報」道図蔵)と、その必要性や効果が認められた。
表10-14 函館幼稚園園児数
年 | 保母数 | 園児数 男・女 |
明治20 21 22 23 24 25 ≀ 33 34 35 36 | 1 3 … 1 … 3 3(1) 3 4(3) - | 24 26 49 43 … … 55 45 … … 63 34 57 46 44 39 51 49 - - |
『函館市史』統計史料編より
保母の( )内は助手の数
…は不明をあらわす
26~32年は資料を欠く
しかし経営は苦しく、26年度以降毎年度函館区より100円の補助を受けるなどして経営を続けたが、36年、区へ建物を返納し函館幼稚園は廃園となった(自明治36年至明治41年「決議書綴」)。廃園についての詳細については不明だが、当時全道で公・私立合わせて2、3の幼稚園が衰退を繰り返していた中で、函館幼稚園が開園以来約15年、常に100名前後の園児を収容(表10-14参照)していたことは注目に価するし、函館の教育に大きな貢献をなしていたといえるだろう。なお全国的には32年には幼稚園に関し詳細に規定した最初の規程「幼稚園保育及設備規程」が公布され、翌33年の「小学校令施行規則」の中に包括、整備された。