キリスト教系の女学校

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初めてのキリスト教系女学校「カロライン・ライト・メモリアル女学校(遺愛女子高等学校蔵)

 
 これらの女学校は当初は私塾的な形をとったものが多く、函館で女学校として最初に開校したのはメソジスト系の遺愛女学校であった。7年1月、アメリカメソジスト伝道教会の責任者である夫M・Cハリス氏と共に来函したハリス夫人の「函館に少女たちのための学校の開設を」という訴えに、ライト夫人の寄付金を得た外国婦人伝道協会は、函館にキリスト教主義の女学校を設立することになり、最初の援助者として、11年に宣教師プリースト(Mary A.Priest)を派遣した。その後彼女の要請により13年にはウッドウォース(K.Woodworth)が来函、14年には健康を害して帰国したプリーストの代わりにハンプトン(Mary Hampton)が来函した。ウッドウォースとハンプトンの2人の宣教師は宇野兼三の協力を得て上汐見町(現元町)の地に校舎を建て、15年2月1日、寄付者のライト夫人にちなみカロライン・ライト・メモリアル女学校として開校した(『遺愛百年史』)。開校時の生徒はすべて弘前からの生徒だったという。これが遺愛女学校の始まりで、のち18、9年ころに遺愛女学校と日本名に改称した(作山宗邦「新聞にさぐる明治期の遺愛女学校」『函館私学研究紀要』15号)。21年暮れには遺愛女学校の発展に大きく貢献したデカルソン(Augusta Dickerson)が着任している。
 このほか幕末から函館での活動を始めていたハリストス正教会では、17年3月、裁縫指導を中心に教会敷地内に女学校を開設、23年には改組して正教女学校とした(23年1月14日付「函新」)。なお開設当時の新聞には「元町露西亜館内女学校」と掲載されており、20年ころには裁縫女学校となっている。また同じく幕末から函館に関係のあったカトリック教会は、11年に来函した3名の修道女によって元町の地に施薬院・孤児院とともに授産所が開かれ、裁縫・編み物などが指導された。「仏蘭西女学校」などと呼ばれていたが、学科を定め、19年1月正式に聖保祿女学校として開校した(函館白百合学園『百周年記念誌』)。明治になって函館での布教が始まった聖公会は、22年11月、アイルランド人のポーター嬢を教師に迎え靖和女学校を開校した。この学校は5年制で「基督教主義の道徳に基き汎ねく女徳を発育する」(22年10月27日付「函新」)ことを主旨としていた。

聖保祿女学校


独立した元町女史小学校の子どもたち