小学教科伝習所の生徒たち
認定基準をパスした2名の官費生(土屋直三郎・菊池敏四郎)をはじめ、及川専治・佐藤定明・佐々木利三郎・安田貞謹・板橋徳衛・小幡慎吾・八田満次郎の7名の札幌本庁管内からの派遣生(明治9年「函館支庁日誌」道文蔵)など31名の生徒が入所し、9年2月8日、会所学校の敷地内に小学教科伝習所が開所された。教員は城谷成器を筆頭に同じく東京師範学校の卒業生である中里方精・坂本重勝それに斗南藩士吉田元利の4名で、ともに会所学校の教員兼任である。授業は官費生と自費生の2部制をとり、当時の小学校課程に合わせ小学教科上・下等それぞれ約3か月ずつで修了予定であった。
東京師範学校全科の修業年限が2か年だったのに対し、函館の伝習所をはじめ各地にできた初期の教員養成機関の大半が2、3か月から6か月の修業年限でしかなかった。半年で全科終了は大変なことであったらしく、この年の10月初めての小学教科下等の卒業生が2名(ともに派遣生で卒業後直ちに帰札)、小学師範学科として初の全科卒業生は翌10年7月になって2名(官費生の菊池敏四郎・土屋直三郎、ともに会所学校に奉職)出ただけであった。この全科卒業の二名は会所学校に奉職した。
小学教員を地元で養成し教員不足に対処しようと開設された伝習所だったが、日々増加していく教員の需用に見合う供給をすることは容易なことではなかった。『師範学校第一年報』でも「函館ハ原ト士族少シ故ヲ以テ伝習所官費生ヲ募ル毎ニ其人ナキ」と指摘する通り、入所希望者が少なく退学者が非常に多いため卒業生を順当に出せなかったのである。同年報によると開所した9年1年間でも、入所者数42人(男38・女4)に対し退学者数は14人(男10・女4)と実に3分の1もの生徒が退学している。理由は、入学時の能力的な選択がゆるいために入学後の高度な教育内容についていけない者や、教員になろうとして入学するのではなく単に中等教育が受けたいという気持ちだけで入る者が多かったためで、ほかに病気で退学した者や不品行で退学を命じられた者も多数いたということである。
こうした形成期の問題点を含みながらも教員不足を補うため、何とか伝習所から卒業生を送り出さなければならない函館支庁は、就学心得を改正して5名の官費生を20名に増員したり、11年2月には卒業後の奉職期限を官費生1年半・自費生1年に短縮した「小学教科速成法」を制定し、8月には官費生の予備生徒を養成するための「伝習所予備生徒就学心得」を制定したが、いずれも希望者が少なく、12、3年には青森・岩手・石川・山形・宮城県などへ出掛け生徒を募っている(明治14年「取裁録」道文蔵)。しかしこれら一時逃れの対応処置は結局小手先の教授方法だけを簡単に取得した速成教員をどんどん送り出す結果となった。本来は国内の初等教育をより完全なものとするために、国の教育政策の実行者としてじっくり時間をかけて養成された教員を各学校に送り出すことが教員養成機関の本務であったのだが、現実に増え続ける小学校や教員の需用には、当時の伝習所の機能状態ではとても対応しきれず、さらに開拓が始まったばかりの北海道での人材不足はさらにそれに拍車をかけていた。
10年10月城谷成器は任期満了で退任、中里方精が後任となった。翌11年6月従来教員が兼任であった伝習所と会所学校は組織上完全に独立、伝習所には監督が置かれ初代監督に中里方精が就任した。同時に「伝習所監督心得」「伝習所教員心得」が布達され、伝習所は従来からの教員養成と合わせ新たに各公立小学校教員の監視・監督などの指導的立場にも立つことになった。
11年4月伝習所は付近から出火の火事に類焼、とりあえず会所学校の一部を借用して授業を続け、10月には新設の附属小学校の一部に仮住まいし新築を待った。しかし翌12年の大火により新築の目途も断たれ、伝習所は附属小学校に同居を続けることとなった。