全国の教員需用の増大が続き東京師範学校卒業生の派遣だけではとてもその要請に応じきれなくなった文部省は、6~7年にかけ各大学区本部に東京師範学校同様の官立(文部省直轄)師範学校を開設、卒業生をその大学区の教員要請のための中心スタッフに充てた。しかし西南の役による財政難のため、10、11年にかけ各大学区本部に開設されたこれら官立の師範学校は次々と閉鎖され、結局東京師範学校と女子師範学校(東京)だけが残ることになった。こうした一連の官立師範学校の廃止は、一方では変わらぬ教員の需要の増大に応えるために、教員養成の実権を国から地方に肩代わりさせる結果を生み、公立師範学校の設立奨励と内容の充実がなされたのである。
13年12月公布の改正「教育令」は、「各府県ハ小学教員ヲ養成センカ為ニ師範学校ヲ設置スベシ」と各府県に公立師範学校の開設を義務付け、翌14年8月「師範学校教則大綱」を布達した。この大綱は16年に布達された「府県立師範学校通則」と併せ、政府から示された初めての本格的かつ具体的な教員養成教育の指針となり、各地の公立師範学校の整備がなされていった。
15年2月、開拓使が廃された北海道は3県(札幌・函館・根室)分治の型となった。これにより函館師範学校は翌3月から函館県の管理となっが、函館県はこの年8月から県下に改正「教育令」を実施する旨を布達、師範学校にも改革が加えらえた。まず15年10月「函館師範学校職制」(『函館県布達々全書』)を制定、師範学校の目的を「管内小学教員ヲ養成スルコトヲ主管シ、兼テ小学校教員ノ学力ヲ検定シ及ヒ管内小学校授業ノ方法ヲ改良整理スルコトヲ掌ル」とし、新たな組織・職員俸額・月俸・旅費などを規定した。翌16年3月には「師範学校教則大綱」に基づき改めて「函館師範学校規則」が布達された。この規則によると師範学科を小学課程に合わせ修業年限1年の初等科・2年半の中等科・4年の高等科の3科に分け、それぞれ1年を2期とし、初等科2級・中等科5級・高等科8級とした。各科卒業後は卒業科以下の小学教員に就任できた。卒業証書の有効期限は7年間で、この間「学力優等授業練熟品行端正」な者には県令の認定を経て有効期限延長などの処置も認められた。受験する生徒の条件を品行端正体質強健で、17歳以上(中・高等科希望の者は15歳以上でも可)で、小学中等科卒業以上の学力のある者とした。生徒は校費・自費生に分かれ、常に40名の正規の卒業生を送り出したいという県側の意向により校費生の定員を80名とした。なお16年の生徒54名(内女3)はすべて校費生だった(『函館県学事第二年報』)。生徒は仮入学の後本入学となり、校費生には卒業後各等科それぞれに1年半・3年・4年の管内奉職が義務付けられていた。
こうして函館師範学校は、ここに至ってようやく名実共に各府県の公立師範学校と同一線上の師範学校となり、その体制を整え本格的に機能を発揮することとなった。