協会ノ世ニ公益アルハ、今更ラ僕ガ申サズトモ普ク世ノ知ル所ニシテ、各自其主義ト目的トヲ以テ遠近相援ケ、東西相結ビ各種ノ協会ヲ現出シ、就中政事上ト宗教上トヨリ結合セルモノハ最モ盛ンニシテ、亜(つい)テ農商ヨリ山林、水産、其他学術ト現業トニ依テ相協合スルモノ一ニシテ足ラス。当道ノ如キモ札幌有志諸君ノ発起ニ係ル勧農協会ノ如キ、開会以来日未ダ浅クシテ既ニ百余名ニ垂ントスル賛成員ヲ得タリトゾ、盛ナリト申スベシ。斯ノ如ク他協会ハ雨后ノ菌ト一般ニ、茲ニモ彼処ニモ続々現出スルニモ係ラズ、僕等ノ主義トシ目的トスル教育上ヨリ結合セルノ協会ハ、文部省官設ノ学士会院アルノ外ハ寥々トシテ、雨夜ノ星ト一般偶々一二之アルモ勢力振ハス、会員少ニシテ寧ロ之レナシトスルモ可ナルノ有様ナリ。鳴呼賛成員其人ナキニ因ルカ、将タ教育ナルモノハ協会ヲ要セズシテ可ナルニ因ルカ、抑モ他ニ又タ因ル所アツテ然ルカ。 |
このように問題提起した岡野は、「農商主義ノ協会」(明らかに、勧農協会を指していると思われるが)や「政事上ト宗教上トノ協会」に比較して、「未ダ一大教育協会ノ起ラザル」原因は「主唱者タル発起人ナキニヨルナリ」と指摘した上で、函館教育協会の設立された意義を次のように述べている。
今ヤ我カ函館教育有志諸君ハ、協会ノ一日モ欠クベカラザルヲ知リ、北海道教育会開設ヲ好機会トシ之ヲ札幌、根室ノ有志諸君ニ謀リ、遂ニ主唱シテ函館教育協会ヲ設立シ不日ニシテ会員ノ已ニ五六拾名ニ上レルニ至レリ。是ヲシテ愈盛ナラシメバ、北海全道ノ教育者ヲシテ連合シテ討論ニ演説ニ、通信ニ雑誌ニ筆ト口トニ依ツテ智識ヲ互相交換スルニ至ラバ、全道教育ノ進歩ハ果シテ如何ゾヤ、教育者ヲ待テ後チニ知ルニ及バズ。尽ク其ノ公益アルヲ詳知スベキナリ。曩ニ僕有志ト謀リ北海道学事新報ヲ発行スルニ当ツテヤ、素ヨリ全道学事ノ景况ヲ網羅シテ衆教育者ニ益スルアランコトヲ望ムノ主意ニ出ルモノトス。然レ(ド)モ通信開ケズ、誰ニ依テ札幌、根室ノ事ヲ聞知センヤ。窃カニ以テ当道教育ノ一大欠点ナリトス。今ヤ此協会ノ設立アリト聞キ、余ガ素望ト投合スルヲ喜ビ迂拙自ラ揣(はか)ラズ、前ンテ発起人ノ末ニ加ルモノハ、先鞭一着他ヲ誘導セントスルニ非ラズ。先ツ隗ヨリ始ムルノ故智ニ出ルノミ。有志諸君、宜シク協会ノ一日モ欠クベカラザルヲ確知セバ、続々賛成アランコトヲ。鳴呼是レ啻ニ北海道ニ止ランヤ、諸君ノ尽力周旋ヲシテ撓マズ。挫ケザラシメバ、日本全国教育者ト連合一致互相公益ヲ謀ルノ日ハ、抑モ亦タ遠キニ非ルベキヲ知ルナリ。 |
以上のような岡野の主張から明らかなように、「全道学事ノ景况ヲ網羅シテ衆教育者ニ益スルアランコトヲ望ムノ主意」から発刊された『北海道学事新報』が、予期した効果を発揮しなかったことへの反省から(岡野は、「編輯兼印刷人」の「補助」として学事新報に関係していた)、彼は「全道教育ノ進歩」を最終目標とする函館教育協会の設立に、発起人の一員として参加した経過を述べ、あわせて全道教育者中の「有志」に対し、協会への積極的参加を呼びかけているのである。もっとも、『北海道学事新報』の創刊されたのは同14年の9月であり、わずか2か月余で全道への波及的効果を求めようとするのも、やや性急に過ぎるようにも思われる。それにしても、函館で創刊された雑誌でありながら、この『学事新報』があえて「北海道」の名称を付した点に、札幌(あるいは勧農協会)に対する函館(函館教育協会)の並々ならぬ対抗心、自負心を読みとることができるのである。