教育協会の代用機関雑誌となった『北海道学事新報』創刊号
次いで(2)の会誌発行問題について触れてみたい。地元函館の常会員の他に各地会員の存在を認め、両者の活発な交流を期待する函館教育協会にとって、会誌の存在は必要不可欠であった。しかし、協会の創立期においては、こうした機関誌発行の余裕はなかったためか、規則第11条にも明確に規定されているように、「当分ノ中」は当時発刊されたばかりの『北海道学事新報』を準会誌として利用することとなったのである。
ちなみにこの『北海道学事新報』の創刊事情は、本項の「一 函館教育協会の成立」においても若干触れたが、「北海道目下学事の景况を報道するに止まらず旁ら洋の内外時の古今に渉り当道学事上有用なる事項を蒐集して刊出する」(同誌「凡例」)ことにより、「当道学事ヲ振起セバヤ」(同誌創刊号「緒言」)との目的意識から、北溟社内に事務所を置く北海道学事新報社によって明治14年9月に発刊された雑誌である。毎月2回の発行で、最初の編輯兼印刷人は小平金治郎、同補助は岡野敬胤であり、定価は1冊4銭であった。
この『学事新報』自体が、教育協会との関係を明瞭に打出すのは、同年12月28日発行の第7号の後書きにおいてである。そこでは、この時既に協会の書記に就任していた岡野が「迎陽一新我社も又た一新して勉めて諸君の厚意に報ぜんとす。殊に函館教育会其会記事を渾て敝社に委托せられたれバ、来年より同会の演説に討論に其精なるものを選み論説とし、又同会地方会員より報ずる地方学事の景况ハ、根室に札幌に広く全道の事物を載録し北海道学事の耳目たる任を尽さんとす」と述べ、次年からの誌面改良を予告している。
しかし、皮肉なことに協会の「代用機関雑誌」化した『北海道学事新報』は、同15年に入ると次第にその発行が遅延するようになっていった。具体的な発刊状況は、次の如くである。
第8号 | 1月25日発行 | 第9号 | 2月11日発行 | 第10号 | 2月25日発行 |
第11号 | 不明 | 第12号 | 3月31日発行 | 第13号 | 4月25日発行 |
第14号 | 5月25日発行 | 第15号 | 6月18日発行 |
このようにして、結局第15号をもってこの『北海道学事新報』は廃刊となってしまうのである。こうした状況に対して、教育協会はどのように対応したのであろうか。