函館教育協会の設立された明治14年11月から、同2、30年代にかけての時期は、同会の歴史の上でも最も注目すべき時期であったように思われる。即ち、開拓使本庁や北海道庁が「奥地」の札幌に設置されたために、道内の政治的中枢からは一歩遠ざかったとはいえ、経済的、文化的な側面での函館の先進性・優越性は明らかであった。
この教育関係団体の場合も例外ではなく、函館教育協会が道内で最初のこの種の組織である。札幌では翌15年4月に、「教育ノ進歩ト改良トヲ謀ル」ことを目的に会員30余名の札幌教育会が設立され、藻岩学校に事務所を置いた(『北海道学事新報』第14号)。また、同17年7月には福山教育会が設立され、明治10年代を通じてわずかこの3団体しか存在しなかったのである。しかし、札幌教育会は同20年に早くも解散しており(明治21年2月19日付「北海」)、あらためて北海道教育会がこの札幌に設立されるのは、明治24年3月のことである。
この北海道教育会の設立と相前後して、明治21年に根室教育会・小樽教育会が、同23年に日高教育会、同27年に上川教育会、同30年には桧山教育会が設立される。このようにして、全道各地に教育会の簇生がみられるのであるが、こうした状況は、函館教育協会の全道的地位を次第に低下させてゆくことに結びついていた。