このように江差においては、神官による忠実な神仏分離が行なわれた結果であろうか、神官と僧侶によるある極度な反目が生じている。
すなわち、神官藤枝が正覚院に同寺持ちの「琴平ノ大神」を取調べに行ったところ、正覚院の住職は神仏分離の政策の「御趣意相ソムキ候儀無御座候得共、当社神体秘物ノ事」ゆえに、神官藤枝の調査を拒絶しようとした。そこで一通りの応酬があったのであるが、神官藤枝はやむなく、「神体神具等も取調不申帰参」したのであった(『神道大系北海道』)。時に、明治3年8月24日。
神仏分離政策の趣意に背くものではないとしながらも、正覚院の住職が「神体秘物」を理由にして、神官藤枝の取調をボイコットしたことは、明らかに地方における神仏分離政策に対する寺院側の抵抗運動に他ならない。
この寺院による抵抗はその後、どう推移したのであろうか。その結論は翌4年、次のように出された。
寺院境内ニ祭来有候分ハ、仏体仏具ハ陣ヘ為引入、社祠ノ義ハ寺院ニテ御壊候事、一境外ニテ山上下様ニ有之社祠ハ、仏体ニ候ハヾ在寺ノ内陣ヘ為引入、社祠社地トモニ引継可申事(中略)四人立合ニテ正覚院寺内ニ鎮座金毘羅宮ノ神体御改、仏像ニテ俗ニ十一面観音也(中略)堂ハ早々取壊被仰付
(『神道体系北海道』)
正覚院の抵抗は意外にもろく、金毘羅宮は破壊されて、正覚院における神仏分離も完遂されたのである。
以上、松前および江差を実例にして、神仏分離の実相を史料に即しながらみてきたが、それによれば、第一に箱館戦争によって神仏分離が一時的に中断されたものの、その分離政策は概ね貫徹されていたこと、そして第二に、江差正覚院のように神仏分離に対してささやかではあるが抵抗を示す寺院も存したことが確認された。