表11-2(開拓使の神仏分離観の転換)が如実に示すように、36社の中に稲荷社がなんと約3分の1に相当する11社も存している。この数量的事実と前掲した表11-1「場所」に於ける宗教施設(稲荷社の廃絶の意味)の中の稲荷社の数量とを考え併せる時、北海道・函館における神仏分離の特質として、次の点が指摘されよう。
1、箱館戦争のため、函館・松前・江差においては神仏分離は布達されてもすぐさま実施されず、それが現実になされたのは明治3年のことであった。
1、しかしその神仏分離に対しては江差・函館に例をみるように、一定の抵抗があり決して順調ではなかった。
1、明治5年の段階において開拓使は、神仏分離の徹底化を計ろうとしたが、その2年後の明治7年に及んで、北海道の近世的伝統や北海道的実態に思いを致して、ついに近世的な稲荷社などの宗教施設を容認するに至った。これは、視点をかえていえば、北海道宗教史における近世の近代的再生、あるいは近世と近代の連続面の存在を意味していた。
このような北海道ないしは函館的な神仏分離の特性は、一言にしていえば「政策の不徹底」であり、同時に神道と仏教におけるある種の「妥協・融合性」でもある。
ならば、函館においては前の江差正覚院と神官との間に生じたような神社と寺院間の反目は絶えてなかったのであろうか。