函館における神仏分離の背景

1319 ~ 1321 / 1505ページ
 それでは、函館の神仏分離において何故に、「不徹底性」なり「妥協・融合性」なりが生じたのであろうか。その答えの一つに、前にみた近世からの伝統に即した地域住民の神仏習合を求める声があったことは確かであったにしても、よもやそれのみではないであろう。
 函館が幕末の開港場として世界に広く門戸を開き、もろもろの文化、とりわけキリスト教文化を受容する場であったことをこの際、看過してはならない。現に、黒田開拓次官は明治5年の、正院に教導職設置を要求する文面の中で、次のようなことを吐露していた。
 
今般、教導職ヲ被置、御国内洽ク説教可有之旨ニ付テハ、北海道ノ儀モ、至急施行相成候様仕度、筥館港ニ於テ、耶蘇教蔓延ニ付、既ニ処分振等相伺候程ノ儀ニ候得ハ、深御注意ノ上、長崎同様、相当ノ教導職両三名御差下、懇切説教有之様、教部省ヘ御沙汰被下度、此段奉伺候也。
   壬申五月廿二日                    黒田開拓次官
    正院
       御中
(『神道大系北海道』)

 
 キリスト教が長い禁制から解放されて、広く庶民に自由に受け容れられるようになるのは、明治6年2月24日のことである。そのキリスト教解禁から2か月余の5月4日、函館市中は「当港在留アナトリー教法不相替洽布、即今就学ノ者モ弥増、殊ニ三章ノ制札取除ニ付テハ、此末益勢焔盛ニ可相成ト苦慮仕候」(「開公」0874)というように、これまで押し込められていたキリスト教禁止という反動が一挙に堰を切ったようにあふれ出していた。
 これは見方をかえていえば、明治6年のキリスト教解禁以前においても、市民の中には一定程度の潜在的なキリスト教信者が存在していたことを暗に示している。こうした市中の非神仏的な信仰傾向が強まるなら、そこに神社と寺院に異常なまでの危機感が立ち表われることは言うまでもない。函館においても非神仏的風潮が一般化する時、必然的に反キリスト教の名目で、寺院と神社がその宗教的一体感を強めていくだろうことは容易に予測されよう。寺社が反キリスト教の立場から、結束を強化すればするだけ、神仏分離は「妥協・融合」へと赴き、ついには「不徹底」に終わってしまうことは見やすい道理である。函館の神仏分離はこうした特殊な状況下に推進されたものであった。