影田らがその取り調べのなかで没収された教義が、「教理問答」、「旧約全書」、「新約全書」、「天道溯原」、「論聞天主教」、「聖史記略」等であった事実に徴すとき、宮城県出身士族を核とするこの「洋教一件」は、その信仰の深さといい、その秘したる信奉者数といい、全くもって政界を震撼させて十分な一大騒動であった。
では、開拓使-函館支庁の側は、この騒動をどう受けとめ、どう解決しようとしたのであろうか。その辺のことを余すところなく伝えているのが、次の史料である。
箱館表の義は遠隔辺陬ノ地ニテ欧化風俗ニ疎ク、人民頑固、(中略)且過日御指図ノ通津田徳之進外壱人御赦免ノ義函館表へ申遣し候ニ付、当人共御赦免後倣然魯館へは勿論、市中徘徊、天主教講説致シ、剰ヘ諸人ヘ対し放言冷笑候様ニテは益洋教流布致シ、教諭ノ道も不相立のみならず、多少の人民へ威信難相立、随テ当使庁ヲ軽蔑誹謗いたし候様ニ成行候テは第一御政体ニ関係いたし可申ト存シ、苦慮仕候。就テは大蔵省ヨリ宮城県へ相達、早速引取候様御達し方相成度、左も無之候得ば箱館人民保護教化ニ差支可申ト存候(後略) 壬申五月廿五日 黒田開拓次官 正院御中(「洋教一件」) |
これによれば、函館における宮城県出身士族らのキリスト教流布をめぐって、中央政府の方から赦免するよう指図があったのであるが、それを行なうと、市中への布教は勿論のこと、開拓使-函館支庁に対する誹謗も始まるので、どうしても認められない、と開拓使ではかたくなに拒絶していることが読み取れる。併せて、函館市中の民は「欧化風俗ニ疎ク、人民頑固」の精神構造ゆえに、キリスト教には不向きであると、黒田開拓次官は指摘している。いうなれば、宮城県出身士族たちの洋教入信騒動は、単に函館を舞台にくり広げられただけであり、函館市中の民にとっては無縁のものであるとの認識を開拓使-函館支庁の側は示していたのである。だから、即刻、大蔵省を通して宮城県の方にその身柄送還を要求したのである。
開拓使-函館支庁がこのように、依然としてキリスト教邪宗観をとりつづけるのに対して、中央政府や宮城県はどのようなキリスト教観をもっていたのであろうか。
中央政府は、改めて言うまでもなく、前の井上馨の建議を容れる形で、「切支丹信仰の者、戊辰以来寛典ニ被処、専ら教化ニ帰セシメ候御主意ニ付、此旨体認シ、処置可致」(同前)と、キリスト教の信教を容認する方向を示していた。
一方の宮城県においても、「今日海外各国御交際、開化駸々不可禦の日ニ膺リ、猶旧章ニ拠リ御制禁の儀、深き御趣意も可被為在候得共、其実全ク邪法とも不相聞(中略)既ニ寛典の御趣意有之、犯禁の罪科断然赦免相成候(後略)」(同前)と、キリスト教が全くの「邪法」であるとも聞いていないし、そういう邪法観をとること自体、対外的にも問題がある、という甚だ開明的なキリスト教観をとっていた。
このような対比を通してみるとき、開拓使-函館支庁がいかに中央政府や宮城県に比べて、墨守的キリスト教観を有していたかが察せられよう。
明治6年2月24日、キリスト教は解禁になった。しかしそれから半年も経過した9月2日付においてもなお、開拓使-函館支庁においては、「民政ニ妨害無之様取計」(「開公」0874)と、条件付きの信教自由の段階にあった。
してみれば、函館におけるキリスト教受容とその展開の歴史は、行政という上からの立場で見るなら、内部的な信仰熱の盛り上りを背景として始動したのではなく、外なる条件によって他律的に始まったとみなしていいだろう。しかし、看過してならないのは、前引したように、函館市中においては「当港在留アナトリー教法不相替洽布、即今就学ノ者モ弥増、殊ニ三章ノ制札取除ニ付テハ、此末益勢焔盛ニ可相成ト苦慮仕候」と伝える如く、明治6年のキリスト教解禁後、堰を切ったかのように、キリスト教信者ないしはキリスト教の理解者が市中にどっと現われ出していたことである。こうした市民レベルのキリスト教受容は、一朝一夕にして実現できるものでは到底ない。恐らく、函館においては行政府のキリスト教観とは対置する市民的キリスト教観が史料には現われない形で、存在していたに違いない。