開港場としての函館は、日本的な神仏習合の伝統と近代合理主義の洗礼を受けた西洋キリスト教文化とが交錯する特異な場でもあった。一般的にみれば、とりわけ、後者のキリスト教文化の浸透は市民の意識変革に対して陰に陽に力があったと考えられる。その辺の実態はどうであったろうか。
明治15年、函館の地にも全国の例にもれず、「教派神道」の一派たる出雲大社教の函館教会所が開設されたのを受け、翌16年には、山形県大網村大日坊住職が湯殿山大日坊出張所を設けて布教に乗り込んで来ていた(明治16年「願伺届録」道文蔵)。明治15、6年は、17年の教導職の廃止という点から考えて、寺社の協力による近代天皇制の国民教化が一定の成果をあげた時期でもあり、その意味では、国家神道の確立の前夜にも当たっていた。してみれば、出雲大社教の進出といい、湯殿山大日坊出張所の布教といい、神道の世界からみれば、まさに機の熟した起こるべくして起こった函館開教であったのである。キリスト教文化がその一方で花開く函館の地は、他地域にも増して宗教的心情がさまざまに翼を広げる地でもあった。
当時としてみれば、宗教の博物館とも言える程の宗教状況を呈する函館であったから、勢い各種の布教戦線も繰り広げられることとなった。明治11年の1日、こんなことが起こった。新潟から来た尼僧6人が、特定の信者を集めて、例えば尼が息をかけた食べ物を病人にふくめると病が治るなどの現世利益を説き、それを信じ込んだ者が相当数いたという。こうした言語道断の挙動を、「函館新聞」は 「函館も開化したなんぞと方々から讃られても、護符や祈祷を信仰して女のみか立派な男まで血の道を揚げて騒いであるくやうすを見てはどふしてどふして開化なものか」と、論評してみせた。
外見上は開化の町=函館と目されていた当時の函館も、一皮むけば、前近代的な心情がまだまだ人の心を支配する町でもあったことを、この論評は的確に表現している。近代的宗教意識と前近代的宗教感情とが、まさしく同居しているのが、当時の函館人の精神構造であった。