第一公立病院の設置

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第一公立病院

 
 明治11年10月に、区内の2つめの病院として第一公立病院ができた。この病院の設立の経緯については『初代渡辺孝平伝』が当時の様子をよく伝えているので、ここに抜粋する。「病院は其頃函館病院と云ふて、開拓使の官立にて支庁の前にありしが、豊川町より東の方西川町、東川町、鶴岡町辺は其自分貧民多く住ゐしこと故、開業医は薬価が上がらぬ故其近傍には居らず急病の節は其周囲の者は大きに困るとの事廔々聞及べば其近傍に病院設立の必要を思い、開拓使支庁長に話せし処、是非開設すべきやうとの事故、有志者に相談の上、設立医員となりて、七名許りの者が協議の上幸に豊川町に官有地がありしかば、官に願ひ寄附簿を製し諸方の篤志家に募つて病院建築の寄附を請ひ明治十一年に開業致せり」。これにあるように、貧しい人の多い東側の地区に病院を建設しようという有志の働きで設立されたのである。渡辺熊四郎(初代孝平)を世話係頭取として有志の寄付によったのだが、当時の「函館新聞」にも連日寄付金の記事が載っている。11年10月5日付の紙面には、「函館公立病院開業」という記事に寄付金の総額として、「五千三百五十一円九十銭」「人員七百七十四人」という数字がある。第一公立病院の医員は函館病院の医師が兼ねた。当時の医員は院長深瀬鴻堂以下、藤野玄洋、鳥潟精一、富塚謙叔、田巻松栄、宍戸精庵、田中尭民、後藤厚、久保田玄昌、田沢謙、赤城昌英という顔ぶれであった。なお、病院の運営については医員の俸給は官が支給し、その外一切の経費は患者が負担する治療費などによって賄われた。なおこの第一公立病院は、14年に名称をかえて公立豊川病院となった。また医員は徐々に固定的になっていき、19年4月には後藤厚が専任の院長に、同じく田中尭民、萩原精二、小池精一が専任医員となっていた。開院後の患者数は前掲表12-1(→新体制下の病院)の通り、函館病院に比肩するほどであった。